Think Our Life.

TOSHIYA TAMURA

思い違い少々、ほぼ本当のはなし。
愛というあやふやなものを朽ちさせない為に

2013.11.13



プロローグ

その声は親父の声ではなかった

2011年9月

ある日、登録してある親父の番号から携帯に電話があった。その声は親父の声ではなかった。 一瞬で何が起こったのかわかった。 電話主「タムラトシヤさんの携帯でしょうか?」 僕自身「はい、そうですが。。。」 電話主「親父がなくなりました。。。親父の息子のタカシともうします。親父の携帯に番号が登録されていたので、お電話さしあげました。」 僕自身「。。そうですか。。。」 親父が再婚した異母兄弟の弟からの電話だった。 会った事も無いし、名前も知らなかった。その弟と初めて話したのが、20年以上前に2度ほどしか会話した事が無かった親父の他界の知らせだった。 電話主「いろいろお聞きしたい事もありますので、一度お会いして、お話をしたいのですが。。。」と言われた。週末に会う約束となった。 50数年間という月日が巻き戻される感じがした。



愛というあやふやなもの

愛ってあやふやなもの。こころのもちよう次第で、受け止め方も変わる.。はっきりとしたカタチのあるものでなく、記憶という想いの中で残る。

「コリント人への第一の手紙」息子の結婚式で配られたメッセージから

コリント人への第一の手紙 第13章4-8
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。 愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに心理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、全てを期待し、全てを耐え忍びます。 愛は決して絶える事がありません。

自分の結婚式の時の牧師さんが言った言葉は緊張していたのか余裕がなかったのか何も覚えていない。 僕はクリスチャンでもムスリムでも、仏教徒でもない。特定の宗教・宗派に属しているわけではないけれど、信仰という姿勢はある。キリスト教の教会も、神社やお寺も、モスクへも行った。節操がないとも言えるのかもしれない。こころの奥底の良心に聞いて信じるものは受け入れている。 信じているのは、宇宙やあの世この世地球の創造主、魂のようなもの。 人とチンパンジーのDNAは4%ほどしか違わないと聞いているけれど、本当に人、ホモサピエンスはその先祖の流れから進化したのだろうか?その進化の過程とは違うはるか彼方の宇宙人、魂こそがご先祖さまとも思えてくる。

おおいなる存在、宇宙や神、先祖の魂からのサインなのか啓示なのか?大きな意味はないのかもしれないけれど、さまざまな現象や体験、起こったコトなどを受けて、ココロの在り方によって導き出された観念、理念が僕の生き方(考え方)に影響を与えている事は間違いない。

 

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生きる理由

〜そんなものないかもしれない。
と思うときに何かが起こる〜

日々元気に生きる為に、楽しく生きる為に。そのモチベーションを維持する為に。目的や、生きる理由が欲しいから自分を見つめ直すと、ついつい深みにはまって行く。深く考えれば考えるほどに、ほとほと疲れる。 自分の人生に対して、覚悟や本気度がたりないのか。 深い迷いから抜け出すにはどうすればいいのだろう。人によってはいろんな方法があるのだろうけど、僕はいまだ、自力で抜け出す魔法の方法を持っていない。

小さい時から、なんでも自分の心の葛藤は自分で解決しようした。親に自分の心の奥底から助けを望んだ事がないのかもしれない。ずっと心を解放していなかったのかもしれない。ずっと心の奥に「謎」をしまい込んでいたのかもしれない。いろいろな経験をした中で、もうそろそろ自分の心の閉じた部分を紐解く頃なのか。自分が創りだした観念や生き方を変えなきゃ行けないのか?そんな風に思っている頃に、親父の携帯番号からの着信があった。その時、まだ見ぬ弟に「ありがとう」と思うと同時に、やっぱり何かのサインなのかと思った。

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タムラトシヤのはじまり

消された3歳までの記録

★1957年(0〜3歳)【1月13日】日曜日

僕は1957年1月13日に京都壬生で生まれた。もちろん記憶に無い。祖父の一人娘が母親。 【母方の家系としての記憶】
0歳から3歳位迄の写真がいっさい無かった。特に疑問にも思わなかったが、17歳の時にその理由が解った。生まれてから3歳迄の環境や教育が重要。というじゃない。でもまったく記憶がない。写真等の記録もない。親たちからの話もなかった。。。消された3歳までの記録。

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儚い幼少期

★1960年(3歳後半〜)

祖父「一造」、祖母「のぶ」が住む、広い敷地の裏庭付きの2階建ての家で、母と父、そして、母の兄、兄嫁、その子供たち3人。計10人の大家族で過ごしたわずかな期間がある。この大家族の中で一番ちいさな僕。保育園から小学校に上がる頃。数少ない記憶がある。父の写真は無かった。

祖母にタバコを買い物に頼まれて、違う物を買って来て叱られ、押し入れの前に立たされている光景。 (よく覚えている。ただひたすら立たされた。子供って不思議だ、何時でもそこから逃げられるのに。黙って従うのだから。) 裏庭には南洋に育つような木が密集した光景。 (後に見た映画「マタンゴ」*がいるようで怖かった。)寝たきりの祖父の耳元で、僕が小さな声で悪口を言っている光景。 (悪口は本意ではない:僕は近親者に言わされた。でもこの真実は明かさない。言ってから気がついた。冗談でも言う事ではなかったと思う。心の底から、祖父に悪い事してしまったと悔やんでる、もうこれは僕が背負うしかないと、子供心にそう思った。 最大の秘密となって生涯心の底に刻まれてしまった。)

今思えば、祖父は少々、小金持ちだったのかもしれない。その小金と資産の跡継ぎに苦慮していたのかもしれない。その昔だから。いろいろ考えていたのだろうと思う。もしかしたら、この幼い僕に跡継ぎ考えていたのかもしれない。しかし、祖父の死後、実態は、祖父の思いとは、ほど遠い事になっていく。

【9月4日】月曜日 祖父(一造)他界。69歳 お葬式。(かすかに残る記憶。) 白黒の写真もどこかで見た記憶がある。父の姿の記憶が無い。
消された記録。ありがとう。

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記憶する波乱の幕開け

★1963年(6歳〜)

ご近所の女の子と家の前でおやつを食べている光景。 (初恋かもしれない。) 父が玄関先で警察官に椅子を振り上げている光景。 (鮮烈に覚えている。成人してから知ったけどこの当時の父は育ての父だった。)母の兄が、怒鳴りながら仏壇にあたっている光景。 (鮮烈に覚えている。成人してから知ったけど母の兄は養子の兄だった。血はつながっていなかった。) 小学校1年生の教室で、当時放映されていた鉄人28号ばかり落書きしていた。 (皆上手いと言ってくれた事を覚えている。絵を描く事で人が集まる事を感じた。) 絵日記を描いていたら、取り上げられ、それが京都市の美術館に展示された。 (たぶんその歳にしては上手かったのだろう。はっきりとは覚えていない。京都市からの賞状もあったが、その後、借金取りからの逃亡生活時期に紛失した。)

小学校入学前記念写真


★1963年(6歳〜)

写真などの記録も無い分が、はっきりと脳裏にある。これが最古の記憶。その後、母の兄と父が揃ってギャンブルに手を出したのか、家屋も土地も財産も失い、大家族は、ばらばらとなる。すでに妹も生まれていた。僕たち家族は、借金取りからの逃亡生活を行う事になる。

壬生の家が破綻してから、大家族それぞれバラバラになり、当時1泊数百円の簡易宿舎【「あづまや」だったと思う】にはじまり、河原町七条、岩倉、百万遍、一乗寺と、小学生時代は転々とした。夜、妹は父親に口を抑えられ、息を忍ばせながら借金取りから居留守で逃れたり、トイレを我慢し、トイレに行けず、部屋内で空き缶に排出して身を隠したり、テレビの修理だと言い聞かされ、父と一緒にテレビや家財などを質屋に運んだり、ためらいも無く従った。その間、まともに小学校へ行った記憶が無い。だから、小学生時に習う基礎的な部分、算数の九九や、音楽の音符の読み方などが欠落しているのはこの環境が要因なのかもしれない。 この当時(1964年)の記憶は、東京オリンピックを、京都市百万辺交差点の4畳半一間の安アパート。この時から祖母も一緒だった。テレビでポカンと見ていた記憶。(この東京オリンピックの撮影を行っていた方が、故宮川一夫氏。のちに僕はこの方の葬儀に関わる事になる。人生は不思議だ。)



小学生低学年ほぼ記憶無し

★1964年

一家で、勝新太郎の「無法松の一生」※のエキストラに出た記憶。別に役者志願でもなかったはずだから、要は、一家に定職や、収入が無かったので、食事か、日銭が欲しくて日雇いのような形で参加したのかもしれない。当時は、映画やエキストラという意識はまったくなかったから、お祭りのような記憶で、ゆかたのような着物を着て走り回っていた。クライマックスの太鼓を叩くシーンでは、他の子役たちとともにポカーンと見上げていた。たぶん前のほうだと思う。完成した時は、映画館にも連れて行かれ、僕もはっきりとアップで映っていたらしいが記憶が無い。テレビで放映していた時に見たのだが、映っている様子も無い。テレビだからカットされたのかな。。残念。

その他、印象的に覚えている事。 数少ない小学校登校時。クラスメートが、野球のバット振り回していたら、近くの女の子の頭に直撃した。それを遠巻きに見ていた。そのまま、病院に担ぎ込まれて、お亡くなりになったと聞いた。その当事者の2人の様子が不思議な記憶として残っている。バットを振っていたクラスメートの心情を思うと心が痛かった。事故とはいえ、もちろん双方のご両親もさぞ行き場の無いつらさを感じただろう。

 

その後、京都市の盆地北部。岩倉忠在地町移る。まだ道路も舗装されていない市内のすみっこ。明徳小学校に少しだけ在学。そのころ、岩倉は「きちがい病院」のあるところ。と言われ、ちょっとバカにされていた。ざりがにやトンボなどを捕り、グリコのおまけで遊んでいた。そんな記憶が有る。(1966年、盆地南部の低湿地を埋め立て国立京都国際会館が建設されたのをきっかけに市内との道路が整備され、この地区は近郊地域としてのステイタスを高め、全国最高の地価上昇率を記録した。僕たちは借家住まいだから関係なかったけどね。)

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おらは死んじまっただぁ〜

ザ・フォーク・クルセダーズ*

★1968年(11歳)

いつしか、父親が居なくなり、小学校4年の2学期に、母と祖母と妹、そして僕の4人で、京都市左京区一乗寺にたどりつく。4年生の2学期から、ようやくまともに小学校に通いだした。それまでの小学生時代の記憶がポッカリ抜けている。まともに学校へ行ってないのかも知れない。いったい毎日何をしていたのだろう。 新たな小学校で、同じ日に転校して来た男子H君がいたので、当然仲良くなる。彼は元競輪選手の息子。男の子同士なのにままごとのような、遊びばかりしていた。時に喧嘩(といっても小学生らいしい意地の張り合いのようなささいなもの)する事もあったが、以後、中学、高校まで同じ学校となる。数年に1度ぐらいしか会わないけれど、現在では最も古い友人の一人。 Hくんありがとう。

ハレンチ:ザ・フォーク・クルセダーズ


★1968年(11歳)

いつしか、父親が居なくなり、小学校4年の2学期に、母と祖母と妹、そして僕の4人で、京都市左京区一乗寺にたどりつく。4年生の2学期から、ようやくまともに小学校に通いだした。それまでの小学生時代の記憶がポッカリ抜けている。まともに学校へ行ってないのかも知れない。いったい毎日何をしていたのだろう。 新たな小学校で、同じ日に転校して来た男子H君がいたので、当然仲良くなる。彼は元競輪選手の息子。男の子同士なのにままごとのような、遊びばかりしていた。時に喧嘩(といっても小学生らいしい意地の張り合いのようなささいなもの)する事もあったが、以後、中学、高校まで同じ学校となる。数年に1度ぐらいしか会わないけれど、現在では最も古い友人の一人。 Hくんありがとう。

ある音楽の時間、皆が縦笛で教科書の通りに音を奏でるのに僕はひとりついて行けなかった。僕、ハ長調ですらなんとか譜面がよめるぐらいだったのに、皆は、?短調とか、何かを奏でてる。さっぱりわからなかった。何か高等な人の学問に思えた。ボンビー人には縁のないものだと感じた。以来、音楽の授業は嫌いになった。当時の母は離婚協議中。離婚に踏み切る際に、妹を親父側の親権にするかどうかでもめていたようだが、何故、妹なのかは、当時はよく解らなかった。僕と5歳年下妹、そして祖母との4人でアパートで暮らし、母は夜の仕事で一家を支えていた。 (母親は祖父の一人娘。何も知らないお嬢さんだったらしい。その母親が僕たちの生活の為に夜の仕事に身を投じていた。)

妙な印象を覚えている。アパートの玄関には、XX流のお花の免状のようなもの、同じくお茶の免状のようなもの。その威厳とはうらはらの部屋。僕たち一家は、母親は夜の仕事に通い、昼間は寝る。祖母が朝、昼の担当。生活保護を受けながら、小学校に通った。祖母は毎日、毎日、「南無妙法蓮華経」と仏壇に手を合わした。僕はテレビッコ(当時は13インチ位のモノクロテレビ)となった。

 

離婚後、借金取りからの逃亡生活に終息を迎えつつあったのか、家庭環境がカタチだけは少々おちつきはじめた。同じ小学校に長くいるのは、はじめての経験で、ようやく、数人の友人が出来だした。同じ日に転校して来たH君。アパートの向かい側に住んでいるI君。近所に住んでいるJ君、M君、N君、K君などが小学校の友人だった。 当時ビートルズなるものが流行っていた。I君のお姉さんがそれを聴いていたのを覚えている。ちょうどTVでも「Let It Be」がよく鳴っていた。

ある時、補助輪付きの自転車を買ってもらった。初めてのMY自転車。あるとき友人のS君がそれを見て言った。 「買ってもらったのか。。。」 この言葉の中に羨ましさが込もっている感じがした。彼も決して裕福では無かったので、寂しそうに言った。僕自身も、自転車は嬉しかったけれど、素直に喜べなかった自分がいた。僕は、彼を後ろに乗せて、町内を廻った。彼と気持ちを分かち合いたかった。それが最初で最後。彼と僕との関係性が妙なバランスで崩れた瞬間だった。彼は勉強はしなかったし、やんちゃな坊主だったが、しかし、とてもサッカーの上手い彼だった。小学生時代はよく遊んだが、その後は悪ガキ路線へと、いろいろ噂を聞いた。高校時代、そして、成人を過ぎてから、ばったりと何度か逢った事があるがそのままの悪風だった。サッカーほんとに上手かったのになぁ。(当時一乗寺のグランドでは京都紫光サッカークラブ(後の京都パープルサンガ)の成人のたちと練習しているのを記憶している。)サッカー続けていたらきっとサッカーで花咲いてたと思う。小学生時代遊んだ間柄として、とても残念だった。



初めて見たカラーテレビは

TOSHIBA製

突然、モノクロのテレビからカラーになった。 木製のパネルのなにがしら豪華な感じが、アパートに不釣り合いな感じを受けた。覚えている 東芝製、ユニカラーである。家電で初めて覚えたメーカー名である。当時の東芝のローマ字「TOSHIBA」のマークを真似て、僕の名前「TOSHIYA」にしてよろこんでいた。(27年後に、僕はこの東芝さんと直に仕事をさせて頂くことになる。) テレビが持ち込まれた時に、知らない男の人たちがいた。電気屋さんではないようだ。きっと母の知り合いの方だろう。今から考えれば高価なものである。不思議に思う。母親自身が買ったのか、夜の仕事絡みで頂いた物か。たぶんその絡みの人かもしれない。ともかく、ますますテレビッコになった。また、家族がアイスクリームを買う時も、僕は断り その分お小遣いをもらい、お小遣いを切り詰めて切り詰めて、週刊少年マガジンを買っては読んでいた。

当時の流行もの:ゲゲゲの鬼太郎、天才バカボン、巨人の星、あしたのジョーなど定番に、口裂け女や、ひび割れ人間、楳図かずお系もよく読んだ。ウルトラQ、妖怪人間ベム、どろろ、など、どちらかというと暗めのアニメを中心に見てたように記憶する。洋物テレビは、ザ・モンキーズ、コンバット、トッポ・ジージョ、0011ナポレオンソロ、タイムトンネル、宇宙家族ロビンソン、奥様は魔女、インベーダー、スパイ大作戦 CMで覚えているのは ・黒子さん白子さん(ロゼット洗顔パスタ) ・ワンサカ娘(シルビーバルタン) ・桃屋花らっきょう(のり平アニメ) ・金鳥の夏、日本の夏(美空ひばり) ・コークと呼ぼう(コカ・コーラ) ・大きいことはいいことだ(山本直純) ・はっぱふみふみ(大橋巨泉) ・ウーン、マンダム(チャールズ・ブロンソン) ・オー、モーレツ(小川ローザ)

また、当時はグループサウンド全盛期。タイガースやテンプターズを見ていた。(後に沢田研二の母校に行く事になるとは思ってもいなかった。)母親が夜いないこともあり、キイハンターや、プレイガール。ドキドキしながら11PMも見た。このあたりから性に興味を持ちだしたと思う。女子のパンツが見れるだけで興奮した。パンツといっても、赤や、黒、レースがついたようなランジェリー系ではなくまさに白い大きなパンツ。これは、小川ローザの「オー、モレーツ」のCMの影響。これで充分興奮したし、このころパンツは白しか想像できなかった。

そして女の子に興味を持ち出したのもこの頃だが、ボンビーで、母子家庭で、母親は夜の仕事。生活保護を受けている事がコンプレックスでしかたなかった。だから対人に対し、女の子に対しては特に封印していたように思う。この気持ちが中学まで引きずる事となる。性教育は、小学生の授業では教えてもらった記憶が無い。もしかしたら習ったのかもしれないが、難しい言葉(精子、卵子、卵巣など)だったのか、意味が解らなかったのかもしれない。とにかく全く記憶が無い。


この頃、男子のおませ系の同級生から生々しく具体的に聞いた覚えが有る。信じられなかった。 悪ガキ友人曰く「穴3つあるんや」 3つ穴を並べて想像した。「・・・」 まったく想像できなかった。あり得ないと思った。いっさい信じてなかった。そんな事信じられなかった。ともかく女の子に興味を持たない人系としての立ち位置をとった。 かなり、「うぶ」だったと思う。

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フォークルさよならコンサート

ザ・フォーク・クルセダーズ

【1968年10月7日】

小学生後半に「ザ・フォーク・クルセダーズ」が一躍世に出た。僕は初めてLPレコードを買った。「フォークルさよならコンサート / ザ・フォーク・クルセダーズ」

東京での(さよならコンサート)ライブ盤、これが人生で最初のおこづかいで買ったLPレコードだ。家にあるチープなポータブルプレイヤーで聞いていた。(後に、このメンバーの大半と親しくなるなんて、また一緒に仕事をさせて頂く人がいる事など思いもしなかった。こんなにも10歳違いは大きいとは。)しかしそのLPはいまは無い。友人に貸してそれっきり。誰とは言わない。多分借りた本人も忘れているのだろう。もう時効です。差し上げます。


中学に進学する時に、仲のよかった友人の一人が、今までの友人関係を解消しようという旨を言い出した。同じ中学なのに。あぁぁぁ。家庭環境絡みだなぁと感じた。いつもの本人とは違うような言葉の選び方だったのが印象的だった。なぜ、そのように言ったのか真意は謎のまま。以後、嫌いになった訳でもなく関係性が遠くになった。



名字が変わる

★1970年(13歳〜)

中学になると同時に、名字が変わった。小学生時代の名字は再婚時の名字。母親の旧姓、祖父の名字に戻った訳だ。良いのか悪いのか?複雑だった。名字が変わるなんて考えもしなかった。(今調べると、姓名判断の字画的には圧倒的に以前の名前の方が良いみたいだけど。だけど、その名前の小学生時代を考えると、姓名判断どうなんだ?とも思う。)小学生時代の知り合いの目が辛かった。コンプレックスの上塗りのような気持ちだった。この歳ぐらいで、おおかたの僕自身の「性格形成」「観念、思い込み」が作られて、その後もそれで物事、出来事を判断するようになっていったのかもしれない。

少年マガジン


★1970年(13歳〜)

そんな折、中学一年の夏、身体の水を排出できずに、溜まりすぎてみるみるうちに急激に10kg以上太った。身体が重く、病院に行くと、心不全、心臓肥大、不整脈、高血圧と診断される。運動禁止。絶対安静。塩辛いもの、刺激物禁止。薬を飲んで、水を排出させるから10分おきにトイレにいく苦痛が続いた。家庭にコンプレックスを持ち、身体は不健康だし、毎日の楽しみがあったのかどうか思い出せない。

小学校はサッカーばかりしていたのでサッカーをしたかったが、中学校にはサッカー部がなく、ずるずると軟式テニス部に入部した。此れといった意思はなかった。ちょっと良い子のスポーツみたいで抵抗があったが、それでも良い先輩や同僚がいたのでそのまま続けた。そして、一年生の初めての公式試合の前だった。僕の急な病気で休部となり、ダブルスパートナーの「I」君は試合に出られずに迷惑をかけてしまった。本当に申し訳なかった。それでも彼は何も言わず、同僚の初試合を観ていた。僕は休部し、治療の為に通院し、かかりつけの病院のT先生の好意で、週遅れでの週刊マガジンを頂くことになり、これが楽しみでテレビと漫画に明け暮れていた。このころの楽しみは週刊マガジンだけだった。T先生ありがとう。



ピンクフロイド

★1971年(14歳)

祖母が心臓の具合が悪くなり東山安井病院に入院した。家計も大変なのに、入院費も大変だったと思う。僕は、鍵っ子。となる。何度か見舞いに行ったが、暗い印象しか覚えていない。もう少し通えばよかったと今頃思う。おばぁちゃん、ごめん。ピンクフロイド「原始心母」この組曲の一部をFM大阪で聞き、包まれるような気がした。これがきっかけで内的思考に入りその後、プログレッシブ音楽に傾倒する。ピンクフロイドやキングクリムゾン、イエス、ELPを聞いていた。難解なテーマが逆に現実思考放棄、気分を楽にさせた。特にピンクフロイドは海賊版も含めて買いあさりだした。母が作る 梅酒を飲んではピンクフロイドを聞いていた。

原始心母:PINK FLOYD


初交際

★1971年(14歳)

友人を介して女の子を紹介された。交際を申し込まれた。女性と付き合った事は無かったので応えようがなかった。ともかく、文通のような交際は何度かしたけれど何も無く終わった。手を繋いだ事も2〜3度ほどしか記憶が無い。なにをしていたのだろう。おそらく、僕が何もアクションをしなかったからか、ものたりないと思われたのか、僕は付き合うって事、解らなかったし、続く訳もなかった。そういや、生涯で初めて身に付けたお揃いペンダント貰ったのに、あれどうしたんだっけ?彼女には申し訳ないが覚えていない。その彼女とてもまじめで優秀で大きな会社の娘さん。周りはなんだかんだと交際関係、騒がしかったような。

映画「小さな恋のメロディ」が大ヒットしていた。一応見たけど。これがアランパーカーとの出逢い。(アランパーカーは好きな監督さん。アランパーカー監督はその後ピンクフロイドのザ・ウォールを映画化するのです!)それよりも僕は、ピンクフロイドに夢中だった。その年ごろだとあまりピンクフロイドファンはいない。音楽趣味は変わりものだったと思う。

このころからテレビを見なくなる。FMラジオばっかり聞いていた。



祖母他界

【9月13日】月曜日

母の腕時計のネジがとれて、床に転がった。同時に自宅に電話がかかって来た。16時45分。【むしのしらせ】その時に食べようとしていたのが大好きなカレーライス。 祖母が亡くなる。心不全だった。物心ついて初めて、近親者を亡くした。
【13】という数字が気になりはじめた。

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母の癌発覚

★1972年(15歳)

中学3年の後半、こんどは母親の癌が発覚、泣きながら僕に告白する。呆然としながら、これからどうなるんだろう。。と言葉も出なかった。そんな僕を見た母親は、それでも僕の事を思い「音楽でも聞きなさい」と言って慰めようとする。ピンクフロイドの「原始心母」「おせっかい」をヘッドホーンで音量いっぱいにして聞き眠り込んだ。 そして母は入院した。

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365日病院通い

★1973年(16歳)

僕は公立に入れなければ働かなければならなかった。(と本人が思っていた。)妹はまだ中学生だし、選択の余地は多くなかった。担任の先生曰く僕の成績では2校選べたが ひとつは50% ひとつは80%と聞いた。僕は働く心の準備ができてなかったから結局、確立の高い方、安全策として選んだ。多くの友人たちは50%の学校へ行くことになる。ともかく、なにも解らずに、京都府立鴨沂高校に入学。1学年250人ぐらいだったかな。同じ中学の出身は20%ぐらいだったかもしれない。知らない人も多く、かなり風変わりな学校だった。

なにもかもが新鮮だった。相変わらず、生活保護を受けてコンプレックスはあったけれど、そんなことを忘れるぐらい新鮮な日々だった。当時、無気力、無関心、無責任というようなムードもあったが僕には幸いした。エリート系はエリート系。だめ系はだめ系で。人は人。みな好き勝手で、触れちゃいけない事は触れない。どこかで暗黙の了解でいろんな人種が集まっていた気がする。

決まった学生服など無く、私服すぎるぐらい私服で、ハイヒール履いて、髪の毛染めて巻いてハンドバッグ。夜のおねえさんのような女子から、下駄履き、スリッパなどを履いたヒッピーのような長髪から、丸坊主や、パンチパーマの怖いお兄さん系。昭和初期の学生服やセーラ服の純情系まで、自転車、バイク、なんと留年生で車で来る生徒もいた。ミックス授業制で講座ごとに授業を行い、クラスは毎時間、別の教室に移動で、毎回クラスメートも変わる。

唯一の自分のクラスはホームルームで週に1回だけ、クラスメート意識がほとんどない。運動場も無く、体育はバスに乗って20分位移動。乗り遅れると欠席。アジア初の温水プールがある(戦後直後はGHQに占領されたこともあり、ヘレン・ケラーが演説した講堂があったらしい)僕は自由すぎるぐらい自由な校風や、遊びすぎてか落第者もいて、いろんな変な人が多くいる事に、実にいごごちよく楽しかった。

大学生気分?らしいものを既に味わった気分だった。また僕は、学校の中では長髪組だったので、校外ではよく大学生にも間違えられ、近くの大学生(同志社や立命館など)からサークル勧誘などでよく声をかけられた。卒業生は、山本富士子、田宮二郎、森乃福郎、森光子、沢田研二などなど。 その学校時間内は精一杯、高校生活を(あまり勉強して無いけれど)楽しみ、夕刻になると、気持ちを変え、母が入院している京都大学病院に見舞いに行った。

365日毎日欠かさず。 病院へ行っても母親はずっと寝たきりだったので、ほとんど外国テレビ番組、逃亡者をかかさず見ていた。夜の仕事していた時の母親とはほとんど会話をしたことが無かったが、母が入院してから、一言、二言。話をするようになった。母からも「ようやく話できるようになったね」と言われた時、なんだか恥ずかしかった。癌の摘出の手術後も容態はよくなく、痛み止め(モルヒネ)の注射を何度も何度も打って意識がもうろうとしている状況毎日のように続いた。

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オー・ヘンリー 「最後の一葉」

★1972年(17歳)

母親が入院している頃、小中学校時代に読んだ、オーヘンリーの短編の「最後の一葉」が、今の母の入院状況とかぶった感覚があり思い出していた。

オー・ヘンリー
O・ヘンリー


★このころ僕はあまり本を読んだりしないほうだった。

短編なら読めるかなと思い、住んでいる近くの小さな本屋さんに、オーヘンリーの短編集を探しにいった。本当に小さな本屋さん40平米ぐらいの小さな本屋さんだったので、ちょうど僕より少し上ぐらいの、若い、アルバイト風の女子が一人で店番をしていた。僕は文庫本等のような小説等ほとんど買った事がなかったので、探し方もよく解らなかったが、文庫本のコーナーでタイトルを懸命に探していると、店番の女子の視線を何度も感じた。この女子は僕が気になっているようだった。もしかしたら、僕のことがタイプなのだ。っと、勝手にそう思いこんでしまった。探すのが時間がかかった分、沢山視線を感じた。そしてようやく目的の短編集を一冊見つけることができた。しかし、オーヘンリー短編集(1) となっていた。他にもあるんだと思い、探してみたがなかったので、僕は視線を投げかけてくれた可愛い女子の元に行き、ドキドキしながら尋ねた。

僕 : 「あのう…オー・ヘンリーの短編集…(1)以外はありませんか?」

女子 : 「…シンチョウ…。?」

僕 : (おっ!きた!…っとおもった。)「ハイ!170センチです!」

女子 (??っとポカンとした表情…)

僕 :(??!わっ!ちがった!聞かれたのは身長じゃない!たぶん新潮文庫のことだ!)と気がついた。

僕 :「はっ、はっ、はいそうです…」

僕は真っ赤になりながら取りよせを頼んで店を出た。

僕は帰りながら、「かっこわる〜、何だよ〜紛らわしい〜バカ丸出しだぁ〜」と、ぶつぶつ独り言をいいながら勘違い自分を恥じていた。

 

その数日後、本を受け取りにいき、もう二度と立ち寄らなくなった。

ちなみに、O・ヘンリー短編集 (1)(2)(3)が新潮文庫。他の出版社からも出ていた。

勘違いの本屋の思い出。

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母他界、残された17歳と12歳

★1974年(17歳)

正月前に退院し、10日ほど一緒に過ごした。その時のお雑煮は生涯忘れられない。京都の白みそのお雑煮。頭芋の入ったお雑煮。頭芋は「今年は、よい事がありますように」という意味だと言っていたが、なんとなく妙な感じを受けた。そして再入院した。その春、授業中に別の先生がが入って来て、僕を呼び出した。僕は急いで病院へ向かった。

本人17歳の写真


母他界、残された17歳と12歳

★1974年(17歳)

病院の個室では既に数人の先生と看護婦さんが取り囲んでいる。僕は無心で入ると、先生が僕を誘導し母親の元に。 母親が何か言おうとしている。 僕は、顔を近づける。 母親は、かすかな声で僕の名前を呼んだ。 「ト シ ヤ・・・」 僕は 「ん・・・」 と耳を寄せ、そのあとの言葉を待った。 母親はうな垂れた。 先生たちは素早く動き母親の胸部に注射を打ち込み、必死で心臓をマッサージしている。初めて目にする目の前で死に行く様子。 【4月15日】 母は他界。41歳だった。 母は最後に僕に伝えたかった言葉。たぶん「ごめんね」だろうと思う。。

生前、母からよく言われた事は、「偉い人にならなくてもいいから、迷惑をかけるような人にはならないで」。これは今後の指針となった。長い間本当に辛かったからそう言ったのだろう。結婚後は苦労が続いた短い人生だったから、終わって、やっと楽になったのかもしれない。しかし、未成年の僕と妹を残したまま、また苦労かける、迷惑かける事に悔いがあって、それを伝えたかったのかも知れない。

 

入院末期、毎日お見舞いに行くも、痛みで苦しむ母と、モルヒネで意識の無い錯乱したような会話に付き合う事が、耐えて行く自信が無かった。僕の勝手な言い分だけど早く楽になったほうが、母の為にも、楽になるのではと思った。僕も病院の窓から飛び降りて亡くなったら楽になるかも知れない。と、母が横たわる病院の窓を見ながら、よく思った。 いまから思えば、正月には、母は覚悟したのかもしれない。特別に退院をお願いして、退院したのかもしれない。母と妹と僕の為に。

その後、お通夜までの事はほとんど覚えていない。まわりの人たちが全部してくれたのだろう。僕は、お通夜の席で座っていると、疲れているだろうから、また明日のお葬式もあるので、お風呂(銭湯)にでも行くようにと、誰かに促された。ともかく一人で、6年以上も通っているいつもの銭湯に行った。脱衣所で服を脱いでいると、番台のおばさんや、ご近所さんが話をしている。「どこどこの誰々が亡くなって、残されたのは高校生と中学生のふたりなんだって」云々。耳に入ってくる。僕は目も合わさずに服を脱ぎ、当人と知れないように湯船に入り、通夜の場に戻った。

葬儀の日。見知らぬ人がたくさんいた。見た事も無い人たちがたくさんいた。知らない人ばかりで、僕の母の葬儀じゃない気もした。なんだか、祖母絡みの創価学会系の方も来られていて、いろいろともめている様子が目に入った。

僕には、そんな騒音も、ただ淡々と時間が過ぎていくヒトコマにすぎなかった。喪主ではあるけれど、何もしなかったし何もしゃべらなかった。ただ過ぎるのを見守った。葬儀が終わり、焼き場に進み。。淡々と過ぎて、母のいない日々に移り変わっていったが、このあたりの記憶がほとんど覚えていない。 身寄りが無い状況の中で、再び父が現れた。家庭裁判所に呼ばれ、後見人など保護者だのどうするかの意思確認の場である。特に考えもなく、借金を作り田村家を崩壊させた過去は過去ぐらいの意識しかなく、別れた父を保護者として、一緒に住むという意思を裁判所の元で了承した。

正直どうでも良くて、それ以外の選択方法が考えられなかった。 再び父と僕と妹、3人で暮らす事になる。しかし、1年も経たないうちに、父は再びギャンブルに手を染めて借金を作り、突然連絡もなしに失踪し、高校2年生の僕と中学生の妹だけになる。日々借金取りからの電話がかかり、やくざのような人たちが家に押し掛けて来た。結果、当時の借家を未成年で出て行く事になった。 結局父は、生活保護の給付金などが目当てだったのか、解らないけれど、人は同じ事を繰り返す。そう思った。裏切られた。という気持ちもなかった。

高校の友人F君とW君、後見人のおばさん(親父の姉)とそのご兄弟が僕たちの引っ越しを段取りしてくれた。密かに引っ越そうとしたが、やくざのような人たちが家に押し掛けて来て家財は何も持ち出せなかった。友人が手伝ってくれた事も有り、衣類関係と中学、高校時代に買った、100枚ほどのLPレコードだけ持ち出せた。後日、引っ越し時に来たやくざ風の人が別件で逮捕と新聞に載っていた。と友人は言っていた。まったく顔も覚えてない。残された僕と妹は、血縁では無いが遠い親戚にあたる人が高校を出るまで面倒を見てくれる事になった。
人に尽くす人。人から奪う人。「偉い人にならなくてもいいから、迷惑をかけるような人にはならないで」僕は母の事を思った。



母の死後

1970年ロック黎明期

1970年ぐらいからロック黎明期と西部講堂(京都大学の講堂)の時期、さまざまなロックミュージシャンが京都を賑わした。


無名の頃のジョニー大倉、矢沢永吉や、沢田研二のPYG。Char、村八分、かまやつひろし、カルメン・マキなどが西部講堂に登場。東京や大阪、あちこちから京都へ、西部講堂へと移動してきた時代。ウエスト・ロード・ブルース・バンド、頭脳警察、豊田勇蔵、憂歌団、ダウンタウンブギウギバンドなどまだ無名のバンドから、フランク・ザッパとマザーズ、トーキング・ヘッズ、トム・ウェイツ、そしてポリスまでが来て、公演中突然中止などなど変なところだった。あちこちでなんでもありのようなライブがあった記憶がある。もちろんボンビーな高校生だから、全部見れる訳でもないから、安いチケットのものばかり見ていた気がする。

ゴザに座って、一升瓶があたりまえのように回ってきて、そのムードと時代にいただけで、充分に楽しかった。レコードでは、はっぴいえんどやサディステックミカバンド、久保田真琴夕焼け楽団、吉田美奈子や遠藤健司や加川良、中山ラビを聞いていた。70年代の空気に身を投じた。この時すでに、いくつかの友人グループに仲良くしてもらった。僕はいくつかのグループを自由にいったりきたりしていた。 近所の中学時代からの仲間、高校時代のごく普通の関係、不良系仲間、クラブ活動系などなど、いろんなグループにふらっと入れた。 どこでも歓迎された。ニュートラルでいたいと思っていた。

どこでも自由にいれるのがいごこちよかった。僕自身、彼女もいなかったので一人で自由だった。まったくモテなかった訳ではない。告白されても断わり続けた。ちょっとでも僕より、その方が境遇が良い家庭環境を感じると、それだけで気分的に無理だった。深くどこかにコンプレックスが残っていた。

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僕の父は本当の父ではなかった

17歳

17歳になった時、面倒をみてくれていた方が、僕たちの面倒を見ている事に疲れを見せ、ヒステリックについ口走ってしまった。「あなたの父は本当の父でない。本当の父は、田村家や親族は別にいる。妹は母の再婚後の異父の娘。母の兄も養子の兄。兄嫁一家とは血がつながっていない」などなどさまざま事を、不意に知る事になる。 いずれ、知る事ではあったのだろうけど、タイミングが悪かった。

田村家を破産に追い込んだ養父の血を引く、妹は衝撃を受けた。妹はそれを生涯気にしていた。以来、妹は精神不安定になる。無理も無いのかも知れないが、僕はその事を深く受け止めなかった。僕は、ショックはさほどなかった。もう、いまさらという感じだった。また、血のつながっている本当の父と、逢いたいとも思わなかった。頭の中の整理ができてなかった。面倒を見てくれた方とは関係がぎくしゃくし、そして、僕と妹は二人で暮らすことになる。

に、しても相続を巡って養子縁組等を繰り返し、結果これだもんな。ああ儚い。血の濃い僕。大丈夫か?

家系図


僕はいざこざの背景に生まれた

僕の「母方のおじいちゃん」と「父方のおじいちゃん」は、兄弟だった。
僕は「田村家」の家系のいざこざを背景に生まれた。

いろいろな事が判明し、僕自身はそんなに動揺したつもりは無かったけれど、周りから見るとそうではなかったのか、後見人のおばさんたちが僕を心配して、精神科に行かされ、カウンセリングを行った。先生としばらく話をし、寝台に寝かされ、足の裏をくすぐられたり?あちこち感情?感覚なるところを調べられた。「変なの。」と思いながら、帰宅。を結果は「不明」。その病院もそれっきり。何だったんだよ。。。

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淡い自立/社会人

★1975年(18歳)

僕も18歳になり、高校をなんとか追試で卒業。高校の仲良し友人の半分は卒業できずに留年した。半分うらやましかった。生活保護は切れたので、僕は、とりあえず就職し、トヨタの修理工となった。初任給手取りで11万ほどだった。特になりたかった職業でもない。とりあえず働かなければいけなかった。妹は中学を卒業し、美容師になるために、美容関係へ住み込みで働くことになり家を出た。しかし続かず、そこも出ることになる。

 

僕も、1年足らずで上司と馬が合わず退職した。仕事も人生にも、計画性無く過ごしていた。常に保護者がいるわけでなく、誰にも説教されず、ただ日々を過ごす事になる。この時に思った。「30歳までに死んでやる」とそう思った。大きな意味は無い。ただそう思った。 仕事も人生にも、計画性無く過ごしていた。保護者もいるわけでなく、誰にも説教されず、ただ日々を過ごす事になる。この時に思った。「30歳までに死んでやる」とそう思った。大きな意味は無い。ただそう思った。

生活は、毎晩バイクに乗り、いわゆる暴走族ではなく近郊のお気に入りのコーナーのある道路を攻めて、ロック喫茶や、JAZZ喫茶、たまり場の喫茶店で、音楽を聞き、お金もないので一杯のコーヒーや、電気ぶらんみたいなもので時間を潰し、お店の連絡帳みたいなものに落書きして過ごす毎日。拾得、磔磔、サーカス&サーカス、ダムハウス、治外法権、スタディルーム、マンホール、ZIGZAG、ドラッグストア、ほんやら洞、ジャムハウス、京都大学西部講堂、アコシャンなど、たまに遠征して金沢。ヨークというJAZZ喫茶に行ったり。なんてところに音楽を目当てに出没。まだまだ70年代音楽の良き頃。お酒はサントリーのレッド、ホワイト、よくてバーボンのアーリータイムス。

そんな折、山の中のオフロード暴走中に顔から地面に向けて転倒。鼻の下を直撃し、ざっくりと。先頭を走っていたので、共に走っていた友人が、後ろから追いついてきて、僕の顔をみるなりそのありさまを見て(口が二つあるように見えたらしい笑)ゲロを吐いた。僕自身は顔中麻痺していて、痛みが無いが血だらけだった。病院に運ばれた。 保険も無いし、お金もないがともかく手術。それから鼻の下が腫れだし、まるで猿の惑星に出てくるような顔だった。それでも懲りずにすぐに、みんながガソリン代をかんぱするものだから、バイクに乗ってまた暴走の日々。懲りないね〜。こんな事ばかりして、事故って、下半身不随になったり、命を落とした友人も見てきたのに、バカな事ばかりしてる。将来をまったく考えてなかった。

携帯電話もない時代。妹とは、連絡も取れない、取らないまま過ごしていた。数年後、突然、妹から連絡があり韓国の方を連れて現れる。やがて、妹は韓国の方と結婚し、2人の子供を産み、数年で離婚した。人生繰り返すね〜。と思った。

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昼夜逆転どボンビー

★1976年(19歳)

いくつか、アルバイトをしながら生活をした。現在ではフリーターのような位置づけとなる。自称フーテンになりきれないアルバイターだった。(永島慎二のフーテン※に憧れていた)4畳半一間。トイレ共同。家賃14000円。途中から布団もテレビも家具もなし。冬は新聞紙を重ねて寝た。ちり紙交換、八百屋、ホテルの厨房、教会のハウスキーパーそして、ライブハウスの店員となる。 そのころ京都の音楽はブルース全盛期。

ウエストロードブルースバンド、憂歌団、上田正樹とサウストサウスなど、ニューミュージック系からブルースへと変わりつつあった。銀閣寺サーカス&サーカスで繰り広げられるブルースに傾倒して行った。住んでいたところにもたまたま、故塩次伸二氏がご近所でおられ、銭湯も同じだった。仕事場にも常連のように来られていたので仲良くして頂き、影響も受けた。山岸潤史氏、おくむらひでまろ氏、はじめミュージシャンや関係者と知り合う機会となった時期。

そんな環境の中で過ごしていた事もあり、決してあたりまえのような生活はもうないのだろうと僕も思っていた。結構みな、笑えるほどボンビーで大変な生活状況だった。お酒びたりの日々。こんな僕にお金を借りようとする音楽関連の人たち、知人たち。まだまだ底ははかり知れない。奥が深いね〜。純粋に今、その日を生きるだけだった。友人宅まで1時間かけて歩いてなまタマネギを分け合って食べたり、パン屋さんに行って犬のえさが欲しいと行ってパンの端をもらって食いつないだ。ちょっと昔のボンビーを超えてきた様子だった。自分が招いた事だから納得してたけど、子供の頃の僕の親からすれば、子供を抱えてボンビーは、相当キツかっただろうと改めて感じた。

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ポンコツな彼

★1977年(20歳)

もともと音楽家でもなく、夜な夜なライブハウスにいるただのアルバイター。日々目的も無くその日暮らしが続く。暗い箱の中で、酒とタバコと音楽だけの世界から1年で体力、気力切れとなった。夜な夜な出かけて行っては、朝帰り。アルバイト月給3万円弱の不健全な生活。僕自身も身体も壊し、再び心不全再発。これはいかんと夜の生活から抜け出すと、またアルバイトを捜すようになる。その頃、なんと彼女がいた。京都産業大学の2つ上の女性Hさんライブハウス絡みで知り合ったよく有るパターン。

ポンコツ時代本人20歳の写真


★1977年(20歳)

彼女は酔っぱらうと度胸が据わる。酔って、ロッドスチャュワートのステージに登って踊ったりしてたらしい。僕は彼女のご両親からは「悪評高き不良」というレッテルを貼られていた。付き合いも認められない不良だそうで。親からすれば、かわいい娘に、たしかにポンコツで収入なし、家柄不明、そりゃぁ良くはないわね。人間は悪くないんだけどね。そんなこと彼女の親にはツーヨーしない。彼女が大学卒業後、お別れ。もうそろそろど貧民を抜け出さねばと思いはじめた。もう一度月収10万以上にしようと思った。(でも、お金に縛られない結構人間的だったと思うんだけどね。違うか。)



世渡り下手

★1978年(21歳)

製版会社のカメラ技師補佐。アルバイト募集ではいったのに、上司に薦められて社員になった。が、1年で社長と馬が合わず退職。それを機に、同時期のアルバイトも後をおって3人揃って退社。彼らには「心」を感じた。同期のN氏から20,000円借りた。何故だか忘れたけど。その後、彼は長崎に帰り、長崎の空き教会を借り、出版社を立ち上げた。本を出版した。長崎のタウン紙のようなもの。借りたお金を、書留で返そうと連絡したら、その金で長崎に来いと言う。

初めての長崎上陸。その後何冊か送って来たけれど途絶えた。 僕は彼に恩義を感じている一人。 幕末の同じ心をもっているような志士みたいな感じ。どちらかが死ぬ前に会いたい一人。 スーパーのPOP描き。ここは尊敬する友人の兄「あんちゃん」を慕ってでバイトで入り、部署の上司に薦められて社員になったが、1年で部下をかばって社長と対立、同僚と揃って退社。このころから、皆の先頭に立たされては撃沈するパターンになっていた。よく言えば、気骨な人。「世渡り下手」世間をうまく渡れない人になっていた。 しかし「同じこころ」を持つ人を感じはじめ、僕自身の「観念」と母の「言葉」がリンクしはじめた。

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新しい出会い

★1979年(22歳)

近所のなじみの飲食店「ひらがな館」から声をかけられる。当初はマスターの奥さんN子さんもお店に立っておられた。奥さんは南沙織さん似の奇麗な方で、お腹が大きいのにお二人で始められたお店。京都の「ひらがな館」いう自由な学生向け定食屋で初代アルバイトとして3年すごす。ここのマスターA氏は親分肌な経営者でもなく、事業家でもないので、僕が番頭みたいな関係で長く息が合った。はじめ自己紹介した時に、マスターが聞き間違って ナカムラと思ったらしく、以後ここでは「ナカさん」で通る。

ジョン・レノン他界

1980年12月8日 嗚呼ジョン。

ひらがな感のイラスト


新しい出会い

★1979年(22歳)

マスターはミュージカル出身の舞踏家であり、パリでミッシェルポルナレフと同じステージにもたっていた過去がある。身体を動かし表現さる技術もお持ちだった事も有り、京都の劇団員に指導にもあたっておられたから、多くの劇団員などが毎日のように現れた。場所は、一乗寺にあり、学生街。僕もこの町内に小学生から住んでいたので当然変な店がまえでオープンしたから、それに引かれてよく出入りしていた。当然顔なじみになり、バイトに入り込む事になる。縁とは不思議。

当時の客「劇団そとばこまち」軍団が日々おとづれた。当時の芸名つみつくろう、現在の、辰巳たく郎氏など、ご近所だった杉本彩氏など。ちょっと変わった人や、外国の方などが客として来られると、ムキになって頑張って渾身の定食を振る舞っていた。ライス大盛り、カレー大盛りとかいわれると、これでもかという盛り方で挑戦状を叩き付けるようにしていた。でも金額は同じ。ボンビー学生には大人気のお店だった、半面、客が入りすぎて、ご近所の飲食店からは、日々ブーイング。店前やご近所あたりにマナーの悪い駐輪などもあって、よく警察が指導に来た。もう、四面楚歌。だけど大流行り。

 

あるときヤーサン系チンピラまで来てもめごとになって、とうとうマスターが、パリから京都に来て店だして、何やってんだろう?と思ったらしく馬鹿らしくなって「やーめた」でお店をたたむ。これが伝説の本店。二号店は京都大学農学部北門前に健在で、今なおマスターがこっちで頑張っている。
京都に行った時は今でも顔を出すようにしている。Aさんありがとう!

当時は、ほぼ店のグラフィックなども手がけさせて頂いた。3年間働く。毎年1ヶ月夏は休み。国内はヒッチハイクなどでおおよそのところは旅した。毎年気楽な生活を送るものだから友人たちは来年はと聞くようになった。僕は次は、海外だなぁ、と友人に言ってしまった。今でも京都に行くと挨拶に行く。当時の僕のイラストが、今なお飾ってある。今見ると下手だなぁ〜と恥ずかしくなる。それでも飾ってあるのは嬉しい限り。

 

この頃の彼女はお店のバイトの女の子。彼女は地方の超大企業の一人娘。付き合ってから、気づくわけだけれど、こういう時にコンプレックスが復活する。一度彼女の実家の方に遊びに行った事が有る。白手袋した運転手付きの車で迎えにこられた。あちゃぁ〜〜〜という感じ。 僕、まだまだ人間ちっちゃかったし世間知らずだった。車の後部席に座って覚えているのが、後頭部からのクーラーの風だけ。すでに白旗上げていた。 よく思う事がある。 金持とボンビー、普通の家庭と身寄りががない者、 高学歴と低学歴、立派な家系とそうでない家系。などなど。 こういう事に敏感になっていた。

現状の基本的な状況が、頭の上に名札のようなオーラとか見えるようにしてもらいたいなぁと。コンプレックスは不釣り合いの中で羨む心がそうさせるのだから。わざわざ、そのように感じる人と深く関わる事もしたくない。だから、相手に不釣り合いの関係性を感じられるのが一番避けたかった。それは、本人同士だけでなく、そのご親族も含めて。僕自身はボンビーと身寄りがないとか、もうそれ自体どうでもよくて、関わる関係性において、僕自身そのものを受け入れる人と関わりたい。なにがあっても、ホームレスになろうとも、難民になろうとも一緒に共有できるものがほしかった。 愛というあやふやなものかも知れない。 逆境になって初めて感じるものかも知れない。だから、日常では気づきにくいのかもしれない。 僕はこういうやつです。それを踏まえて、僕に関わってください。その当時、僕はそんな勢いだった。社会という枠組みの中のあまりにも小さな存在としての僕にある、未来の姿を見いだせなかったし、何も考えようとしなかった。 むしろ今を精一杯生きよう。と純粋に考えていたのかもしれない。

 

ジョン・レノン他界

1980年12月8日 嗚呼ジョン。



初海外。おバカな460ドル持参で3WEEKS

師との出会い

★1982年(25歳)



★1982年(25歳)

ショルダー1つ。ジーンズ1本。もちろんカメラも無い。「地球の歩き方」を持って行ったけど、結局見もしなかった。途中で、同じような日本人に$5で譲った。それでも夜行バスに乗ってホテル代を浮かし、いきあたりばったり、朝着くところが目的地。うわぁ〜自分の人生みたい。と納得しながら、サンフランシスコ、バークレイ、リノ、ユタ、ワイオミング、コロラド、ニューメキシコ、ロスアンゼルス。キャンピングカーや他の国の人とモーテルをシェアしながら長距離バスで揺られて日本縦断の4〜5倍ぐらい移動した。 それでもいっちょまえにディズニーランドも行った。 グランドキャニオンも見た。グランドキャニオンで疲れて僕の前に空き缶をおいて座り込んでいたら、小銭を投げこまれたりしたこともある。。アルバカーキーからLAに向かう途中、隣のブロンドの女性から、一緒にメキシコに行かないか?と誘われた。行きたい気持ち50%。財布のお金を考えると行けない事情50%。(臆病モノが勝って辞退する事になる)行けばこの後の人生かわってたかも。。。

SFでは公衆便所でゲイに囲まれて、放尿も途中で、逃げ出したり、モザイク無しのムービーだと思って見たらゲイ同士のXXXだったり、アメリカものを買ったつもりがMADE IN JAPANだったり、ストリップ劇場で席の行き違いで怒鳴られたり、1泊$13の裸電球ひとつ、共同トイレ、共同シャワーのダウンタウンの安ホテルも泊まったり、意味も解らなくETを見て涙したり、日本食レストランで、お店のおばさんが僕のなり(姿)見て、哀れんで、内緒でごはんをわけてもらったり、ボブフォッシーのダンシンを生で見たり、公園で寝てたら、なにかに勧誘されたり、ビルのロビーで寝てたら警備員に追い出されたり、ロッキーマウンテンでバスに乗り遅れて途方に暮れたりした。

NY発LA行きのグレイハウンドのバスを途中で乗車しようとした時は、全員黒人の方で一人薄汚れたボンビー丸出しのアジア人が入って来たものだから、席に座らして貰えなかったり、後部座席の酔っぱらいが僕の席を蹴りだして絡みだし、困っていると運転手がつまみだしてくれたり、LAの安アパートで宿泊している近辺で日本人が銃で犠牲になられ、しばし外出禁止になったり、当時の彼女の友人を紹介してもらいキャンピングカーでしばし過ごしたり。言葉も通じないのに他の国のバックパッカーと一緒にモーテルに泊まったり、グレイハウンドバスの隣に座られたおばさんのスカートにタバコで穴をあけてしまったりした。おばさん本当にごめんなさい!今なら弁償します!その他いろんな事を経験した。いろんな人に出会い、助けてもらった。ありがとうみなさん。

日本に戻った時は、財布には帰りのバス代ぐらいしか無かった。入国、税関では、着替えの靴下の中や、歯磨き粉のチューブの中まで調べられるぐらいあやしい帰国者だった。(告白:本当に何も怪しいものはもってなかった!、後ろの日本人は、僕の検査具合見て焦っていた。彼は不当なものを持っていたが、僕が犠牲者となって彼は免れた。こんな僕でもちょっとは役に立った?) 1ケ月足らずの人生変わった米国の旅。



転換の時期

でも、どこか人生観変わった気がした。いままでの僕の考えが小さい事だと。それを感じた「転換の時期」なのかもしれない。 帰国後、以前から、少しづつ描いていたイラストなどの写真が基で縁あって、一歳年下の女友達Mが、師匠/宮川一郎氏のところでバイトしていたこともあり、宮川氏に見せたところ、これをきっかけに師匠と出会う。(師匠と言っても、弟子でもなく。僕が勝手に呼んでいる勝手師匠です。) (彼女の引き渡しがいなければ今の僕は無かったかもしれない。Mちゃんありがとう。) 宮川一郎(みやがわいちろう)1947年、京都生まれ。 (氏の父は日本映画界を代表するカメラマン故宮川一夫氏。宮川一夫氏の作品はいくつか見て印象深く残っていたけれど、当時、氏の作品とはおそれおおくもこれっぽっちも知らなかった。) 幼少より父の影響で視覚芸術を学ぶ。1970年代から数千点におよぶ写真、オブジェ、絵画を制作。後にマックワールドジャパン創刊のエディトリアルなどを行われる。現在の仕事のはじまりとなる。

そして、ザ・フォーク・クルセダーズとの絡みがあるとは知らなかった。 当時、単気筒ヤマハSR400を購入したのも、元ザ・フォーク・クルセダーズの平沼義男氏からである。(当時は平沼さんがオリジナルのフォークルメンバーなんて知らなかったし、バイク好きのおっさんと思っていた。ごめんなさい。)帰国後一年間、元居た飲食のバイトで生活しながら夕刻から師匠の姿を見て、デザインに関わる仕事を真剣に考えだした。この時が大きな転換期となる。やがて、主軸をデザインの方へ移すようになる。 当初、師匠は間借りでデスクを借りられていた。そのフロアには、Kさんがおられた。

Kさんは雑貨を企画販売されていた会社の代表で、後に全国展開で大きくなるも、つまづいて、大きな大きな億単位の負債を抱え倒産する。それから数十年後、再び、築地で名物カレーうどんで再生される。僕にとっては、漫画のような話で、いたく感心している。もちろん、名物カレーうどん。旨いです。

当時、毎日3時間ほどしか寝なかった。1年間ほど、本を整理したり、灰皿を片付けたりしながら時折イラストかかせて頂いたりして、見よう見まねで雰囲気を掴む。この時、兼松ゆたか氏(元ザ・ナターシャー・セブン)と出会う。兼松さんは僕の生涯で、出会った、もっとも人格豊かな方。兼松さんに頼まれたら絶対に断れない。断るとバチがあたります。神のような人。いや神にもっとも近い「愛」を感じた人です。現在はミュージシャンであり牧師様(2013年現在)。そのころブエナビスタクルー(命名は、松山猛氏)という名称でイラストレーターの卵?として所属する。他にコピーライターや、カメラマン卵もいたが、いくつか絵もかいたけれど、自然消滅。あれはあれで楽しかった。若さだね。

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社会復帰〜電撃結婚

★1983年(26歳)

一応社会人サラリーマンに復帰

僕は京都の企業のデザイン室へ誘われた。久しぶりの定額収入となり、長くお世話になった、ひらがな館と宮川一郎デザイン事務所を卒業し、一番下っ端の中途採用者だから必死で働いた。 不規則なフリーとは違い一年で社会の一員になったような気がした。単純なものだ。やがて、宮川師匠は東京へ。松山猛氏と一緒の事務所(ケラモス)で仕事をされる。

そして、26歳で電撃結婚宣言を行う。同じ仲良しグループ内での一人の女性の争奪戦だった。というか、結果的に。遠巻きの友人たちは誰も信じなかった。ありえないカップルだったのだろう。本人もそう思うところがある。結婚相手は交際中の友人がいると知っている。また、その他友人も狙っている。いわゆる人気の的。それなのに、交際でなく、いきなり結婚を申し込むのだから「ノー天気なお馬鹿」でしかない。それが嫁がOKという決断をしたのだから、周りは騒然とした。あとから聞いた話で、嫁が言うには、嫁のおかあさんが、結婚を決めたその男を当時のグループの知っている名前を順番に言い出したら最後だったそうな。一番想定外だったそうな。嫁は「僕にかけた」らしい。。。。。(僕が最期の時に「どうだった?」と聞く勇気あるかなぁ。。)

ともかく、僕の結婚を期に、ほぼ毎日のように遊んだいくつかのグループがバランスを崩し崩壊した。仲良しグループにある暗黙の了解のようなものが崩れた。こんなにも脆い関係性だったとは思いもしなかった。高校時代から20歳前半までの宝物。長年の宝物、友人知人たちを失った気分だった。これも僕が選んだ道。結婚以後、僕はこの友人たちの多くから離れ、疎遠になった。いろんな罪、責任を背負った感じがした。因果応報。繰り返すね〜。

よくよく考えれば僕は何も無かった。 貯金0円 借金バイクのローンあり。 4畳半一間、共同便所 布団もベッドも無し。 家具無し。 あるのは、ヤクザから逃れて持ち出し、買いためたLPレコード200枚とステレオだけ。それでも、結局、告白後2ヶ月後に結婚式となった。 馬鹿を越えてイタい人?いや、嫁が偉いのだろう。 お金もないから、結婚式は宝ケ池公園で行う!と言ったが、妻のお母さんに笑われ一蹴。 ウエディングドレスを着たいという事から、急遽にわかクリスチャンに。5万5千での結婚式。

修学院の小さな教会。新婦ウェディングドレス。新郎革ジャン(友人が古着屋で2000円で買ったものを頂いたもの)にジーパン。拳式の前に近くの珈琲ショップで休んでいると隣の席から、新郎とは知らずに教会の場所を訪ねられたり、拳式中、賛美歌を歌っている時に友人の腕から、赤ちゃんがこぼれ、大きな音と共に床に落ち泣き叫んだり、新婚旅行はバイクで神戸。一旦停止無視で切符切られたり。。途中雨にあい、びしょ濡れになりホテルから出られずにいたりの無計画の新婚旅行。決して華やかなものではなかった。一生に一度のものと期待されていたのなら、本当に申し訳なく思ってる。

 

結婚生活がはじまるや、食べ物の好き嫌いや誕生日や漢字の名前などなど、何も相手の事が解っていないことに気がついたりしながら、ぎこちない安月給の結婚生活が始まる。 身の程知らずだった。 そして、まったくもって人生思考が変わった。 仕事に打ち込んだ。。必死で働いた。

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噛み付くデザイナー

★1986年(29歳)

デザイン室チーフに昇進。

中途採用と専門学校出てないキャリア、ボンビーの波乱家系、ましてや奇跡の結婚しているから、その背景を乗り越える為に必死で働いた。覚悟の無いと感じた?社員、先輩、後輩には、かまわず噛み付く扱いにくい仕事の虫。決して出世の為にではなく、自分の仕事に対する当時の覚悟の賜物だった。気がついたら出世していくラインにいた。今迄経験した事の無い待遇、環境(まぁスタートが低すぎたからね)になってきた。僕の評価とともに、周りからは好き嫌いはっきり分かれていった。それでも構わず仕事に専念した。仕事が楽しかった。誰よりも働こうと思った。働けば結果が出始めた。怖いものなかった。

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長女誕生

★1987年(30歳)

デザイン室/開発室室長に昇進。

このころから、社長直轄の部署として、いろんな事にチャレンジさせて頂く。ニューヨーク、アトランタ、デュッセルドルフ、ミュンヘン、ミラノ、パリなどのファッション関連市場視察など、海外に出向く事もこのあたりから。 妻の出産が迫っていた。

長女:小町


★1987年(30歳)

当初は、分娩室に入り立ち会う話もあった。僕は、まぁ大丈夫だろう、ぐらいに思っていた。しかし、当日、妻が分娩室に入った、いよいよとなったところで僕はそれどころではなくなった。分娩室の外で、大泣きしていた。小さい時の家庭環境時において、いろんな人に助けてもらって、いまここにある。のにも関わらず、いままで散々、いい加減で適当で身の程知らずの生き方をしてきたのに、いま僕の子が生まれようとしている。命の誕生という事に対し、僕はただただ、泣きながら、五体満足で生まれてほしいと願うばかりだった。

妻は偉い。それを察してか、当初の親父の分娩室立ち会いを、自ら中止と告げてくれた。 僕は、大泣きしていた。 「おぎゃぁ」 お医者さんが出て来て、声をかけられた。 「生まれましたよ」 腰砕けになった。女性はいざとなったら強い者だ。 嗚呼なんて僕は弱かったのだ。と心底凹んだ。 奇しくも予定日は 【1月13日】 僕と同じ誕生日だったが、破水し10日早く生まれた。 未熟児ではないけれど体重は2650kgと小さかった。 【1月3日】 長女が生まれた、名前は小町と名付けた。



本当の父と逢う

子供も出来て、親父の気持ちが少しわかった気がした。

子供も出来て、親父の気持ちが少しわかった気がした。三十歳という事もあり、区切りでもあるので、伝手をたよりに、僕の実の父に会うことにした。

手に入った本人2歳の写真


子供も出来て、親父の気持ちが少しわかった気がした。

京都洛北高校の前で待ち合わせた。僕は近所だったので、そこまで歩いて出向いた。多少なり、父に対しかってなイメージがあった。何せ、僕にしては初めて父親にあうという意識。あまり考えないようにしようと思うのだけれど、どうしても考えてしまう。大きな黒い車でゆっくりと現れ、長身でかっぷくのよいスーツ姿紳士。感動的な場面とか、なんとか。。。父は現れた。イメージと違った。普通の人だった。でも、似てたのですぐ解った。。でも正直、あれぇ。。と思った。なんだか拍子が抜けた。

父から名前で敬称略で呼ばれた。 当たり前か。 それにしても変な感じだ。初めて逢うような人に、突然敬称略で名前で呼ばれても。。 離婚当時の事情を説明しながら「すまなかった。」と言う。そしてずっと状況を聞いていたと言う。今はこうして逢っているけれど、苦しかった時に何故現れなかったのだろう。父には父の家庭が有るからか。そうかもしれないが。。。。。僕は、嬉しくも、怒りも。ほとんど何もなかった。ただ不思議な感じだった。

 

家に招き、娘(孫)に逢わせた。父は孫をあやした。妻は涙を流していたが、それもなにか不思議な感じがした。先方のご家庭に腹違いの弟がいる事が解った。そして僕の存在と、何度か逢っている事は承知だそうだが、僕はそれから「父さん」と呼ばないままに2〜3度あった。以来会っていない。その時に3歳迄の写真を、数枚受け取った。大事に持っていた様子だった。へぇ。。。こんなのだったんだ。。これから何が起こるかも知らない、純度100%じゃない!楽しそうだな。。

自分の子供の為に。必死で働いた。好機にも恵まれ、ずいぶんポジションがあがった。妹はその後再婚、離婚を繰り返して、再婚する事になる。あたらしい旦那様は僕より年上で、田村の戸籍に入った。妹の子供の名字が変わったりするのも考慮してだと思う。お兄さんと呼ばれているが、僕には血のつながっていない年上の弟がいるようなものである。またまた複雑な家系となった。妹は母親の為に墓を立てるなど、精神的にも安定するかのように一瞬見えた。ひとつのレールに乗った感じがした。



マッキントッシュPLUSとの出会い

「マッキントッシュPLUS + illustrater1.0 E 版で格闘」

師匠のところに行くと「マッキントッシュPLUS」ががあった。書類を捨てるとゴミ箱が膨らんだ。驚いた。感動した。これが「マッキントッシュPLUSとの出会い。」これにはとてつもなく「あたらしいデザインの世界感を感じ、チャレンジする事にした。人になんていわれようとも、高いおもちゃと言われ批判も多かったが世界が変わると信じて、日々格闘した。

Machintosh Plus

「マッキントッシュPLUS + illustrater1.0 E 版で格闘」

モノクロ9インチ、フロッピーディスクだが、イラストレータ英語版を使用して、サンプルののデザインを起こした。色は頭の中でCMYKを想像しながらの着色格闘。モニターでは黒にしか表示しない。グレースケールではなく2階調表示だった。最終データは出力する所も無かったので、京都からわざわざ東京の出力(現MDN)に出した。このサンプルデザインは、当時の「XX」のMACHINTOSH代理店担当者が、営業見本として使わせてほしいと言った。それ位、デザインの業界ではイラレデータの出力サンプル(版下用印画紙)は少なく貴重だった。よく見るとラインがちょっとずれていたりしてたけどね。なにせ、PLUSとillustraterでそんな物つくるバカいなかった。そして、会社にマック導入の先駆者となった。

日本では1台60万円以上したが、N社長もよくぞ決断してくれたと思う。個人的にも、NYへ出向いた際に、コンピュータ売り場に行き、半額ぐらいで購入し、飛行機内持ち込み、両足のふとももにはさんで持ち帰った。税関ではTVというシールを貼られた。(笑)ハードディスクは30MGが30万だった。そのお店まで付き合ってくれたのは、NY在住のミュージシャンジャズギタリストH氏。その3年後H氏は、日本の大女優、松坂慶子氏と結婚する。日本でテレビを見ていてその吉報を知る。そりゃびっくりした。

その後Macintoshは、カラー表示可能になり、デザイン現場のパソコンの主流となっていく。ジョブスたちの開発の継承作品を手に入れる。(1983年にジョブスがペプシコーラの事業担当社長を口説くために「このまま一生砂糖水を売りつづけたいか? それとも世界を変えたいか?」(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)と言って引き抜いた。1987年、ジョブスはAPPLEを追い出された。)



ピンクフロイド ライブ

★1988年(31歳)

開発室室長専任。

広告宣伝商品開発の仕事絡みででケルン、ミラノ、パリ、マサチューセッツ、ニューヨークなどを視察に。 ニューヨークでは、ジョンレノンの自宅アパート、ダコタハウス近くで食事をとりながら、ジョン・レノンの事を思っていた。

【1988年】ピンクフロイド3度目の来日 長年の夢だったピンクフロイドを実に18年ぶりに生で見る事が出来る。もちろんロジャーウォータース抜きだけれど、僕にとってはピンクフロイドに変わりは無い。

PINK FLOYD WORD TOUR スティック


★1988年(31歳)

僕の席は10列目の中央。申し分の無い良い席だった。こんな席は僕だけじゃ手に入れる事は無理だろうというぐらいの席だ。 某広告代理店D社の内田氏のおかげである。彼の最初の就職時に、僕が面接して採用した関係上、先輩、上司になる。その後、彼は独立し、持ち前の向上心と並々ならぬ努力と実力で、現在はD社の部長。僕よりはるかに手腕を発揮し出世している。そんな彼も、となりの席にいる。彼無くしてこの席に居る事はなかっただろう。こころより感謝している。当時は、僕はちょっ「と恥ずかしくてここまでの気持ちを、本人には伝えてないけれど、この場を借りて御礼申し上げる。本当にありがとう。内田君。(その後も仕事で、いくつか彼の差配でお世話になることになる)

話はもどって、ピンクフロイドは3回目の来日。1回目はまだ良く知らなかったのでコンサートには行けなかった。箱根アフロディーテでの来日。2回目は家庭環境と高校入試試験絡みでそれどころではなくて断念。今回ようやく18年目にしてようやくこの目で見れる事に興奮していた。このピンクフロイドのコンサートの前にZZTOPのコンサートを見て泣いた僕があるので、今回は最後まで立っていられるか不安だった。始まると、初めて見る幻想的なステージで大変満足しているのだが、冷静すぎるぐらい冷静であっという間に終わってしまった。

演目の最後にメンバーが一列に並んで挨拶をしている。メンバーが、スティックを、僕の席から右前方10メールぐらいの所に投げ込んだ。しかしなんであんな冷静だったのだろう。。。僕は思った。必ず、跳ね返ってくると。思春期のコンプレック生活から18年聞いているのだから。そして、跳ね返って来て僕の胸に飛び込んで来た。それでもどこか冷静だった。周りからそれを奪おうといろんな手が出てくるが、内田君の手助けもありPINK FLOYD WORLD TOUR と刻印されている宝物が入った。重ねて、内田君ありがとう。 ピンクフロイドありがとう。



長男誕生

★1989年(32歳)

クリエイティブ室長 部署名はかわるが、業務内容は同じ、さらにマーケティング絡みも携わるようになる。 台湾、上海、パリ、ニューヨーク視察など。ワールドトレードセンターも健在。

長男誕生 奇しくも予定日は 【11月13日】妻と一緒だったが、1日早くなり 【11月12日】となった。 長女より1000kg 多く大きな子が生まれた。万次朗と名付けた。 (いつも朗らかにという意味からロウは「郎」ではなく「朗」らかにした。「郎」のほうが圧倒的に字画はよいのだけどね。息子よ「すまん!」)長女の事もあったので、僕は病院を避けた。息子よ、悪気は無いのだ。決して不公平と思うな!男の子でどんだけ喜んだ事か。これだけは言える。愛は充分にあるのだ。愛がある分不器用になるのだ。恥ずかしいのでこれ以上書くのは辞める。 あたりまえだけど全員B型。これはどうよ。

長男:万次朗


亡命者ヨハネスとの出会い

社長の自宅にホームスティしている青年が、僕の部署に研修生として配属された。彼はハーバード大/デザイン科の生徒で授業の一環として、世界を廻って写真を撮っている。最後の国が日本である。彼は、ルーマニア出身。当時チャウシェスク政権の元、西ドイツに亡命し、ハーバードへ留学した経緯を持つ。 ガッド・ヨハネス・シュスター 彼とは数ヶ月過ごした。毎日毎日、仕事場とプライベートでも。彼とは拙い英語でコミュニケーションをとり短い間ではあったが良き友人として初めての外国の友人だ。3ヶ月ほどの短い間だったけれど、自宅にも来たし、深く仲良くなった。彼が、日本を最後の時に、大きな身体で僕を強く抱きしめた。戦場のメリークリスマスでデビッドボウイが坂本龍一を抱きしめるシーンを思い出した。嗚呼。本気だ。はじめて本気の抱擁を体験した感じだった。以来あんな抱擁は味わった事が無いかもしれない。 ヨハネス。ありがとう。



ヨハネスと再会

★1990年(33歳)

開発室/マーケティング室 次長

香港、上海 、台湾、サンフランシスコ、NY視察など ニューヨークに行くたびに、ヨハネスが逢いに来てくれた。

彼は、当時はキャメラマンとしてエージェントに所属していたが、自転車に乗るメッセンジャーボーイで生計を立てていた。SOHOやビレッジでお茶しながらいろんな話をした。彼のキャメラマンとしての夢をいつも熱く語っていた。ニューズウィーク紙に掲載された僕の録った写真を嬉しそうにみせてくれたり、エージェントの事務所につれていってくれたりした。

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NYでヨハネスと僕


★1990年(33歳)

香港、上海 、台湾、サンフランシスコ、NY視察など ニューヨークに行くたびに、ヨハネスが逢いに来てくれた。

彼は、当時はキャメラマンとしてエージェントに所属していたが、自転車に乗るメッセンジャーボーイで生計を立てていた。SOHOやビレッジでお茶しながらいろんな話をした。彼のキャメラマンとしての夢をいつも熱く語っていた。ニューズウィーク紙に掲載された僕の録った写真を嬉しそうにみせてくれたり、エージェントの事務所につれていってくれたりした。

ちょうど当時の大統領選のデュカキスの写真などをみせてもらった。彼は、人物を撮る写真が多かった。人物の心情がにじみ出るような写真が特長で、僕も人物を描くのが好きだから、共感するものがあった。180cm以上もあり僕より一回り大きいが6歳ほど歳下だったが、いろんな話をしてくれた。また神のお告げのように発展した彼女の恋愛話なども嬉しそうに語っていた。

しかし、よく考えれば、僕の英語力なんて日本の中学生以下のようなもの。ボキャブラリーもなく文法もお粗末。これで、いろんな話をしたなんて言えるのか。聞き役中心であった事は間違いないが、本当に正しく理解していたかは怪しい。解釈違いもたくさんあっただろうなぁ。。と思う。もっと、英語を勉強しろと、ヨハネスに言われたけれど、彼はハーバード。僕とはほど遠い頭脳をもっているのにも関わらず、よく相手してくれたものだ。その時に彼は、来年はアメリカにいないかもしれない。仕事で中東の方に行く。と言っていた。これが彼との最後の会話となった。



ヨハネス他界

★1991年(34歳)

将来の仕事のポジションに迷いが生じた。1ヶ月 N社長の愛のこもった計らいで。休職。(日々 子供と一緒にいて、将来どうしたものか、迷いに入り込む) 結局何も浮かばないまま、1ヶ月がたち、会社にもどり「何も浮かびませんでした!」と告げると、寛大な社長の一言「まぁ、いい顔してるから、社長室でもやれ」の一言で、社長室 室長として復帰させていただいた。 これほど、感謝した事はない。ありがとうN社長。ありがとう。 【1月】 湾岸戦争勃発。


【3月29日】仲間のカメラマン3人とクルド動乱を取材中、イラク兵に捕まり、民家からひきずり出され彼一人が虐殺された。キャメラマンとグルド人と同行し写真を撮っていたようだが、ある時、イラク兵に遭遇し、彼だけが射殺されたと、同行していた別のキャメラマンが語っていた。。。

ニューズウイーク誌 ヨハネス訃報記事


腎臓結石

★1991年(34歳)

社長から呼び出され、ヨハネスの 訃報を社長から告げられる。ヨハネスがイラク兵に射殺された。
。。。僕はそれを聞き社長室を退出したとたん、腹部に激痛が走り、会社の階段あたりで倒れ、のたうち回った。(ヨハネスの撃たれたところ??)他の社員は唖然としていたが、社長が自ら、社用車で、自ら運転し日赤病院に運んでくれた。(人間いざという時にその人の力量がとっさに現れる。N社長ってやっぱりすごい。)原因は腎臓結石。1日緊急入院した。あまりの暴れようだったようで、モルヒネを打たれて点滴を打たれた。初経験/入院。点滴。

モルヒネ これは効いた。ヨハネスがイラクで撃たれた事、母が癌で入院していた時の事。そんな事を思いながら、意識もうろうとなる。尿検査時に、水を飲んでも飛び跳ねても尿が出ないので、診察台に寝かされ、股間をあらわにされ、若い看護婦二人掛かりで、ペニスを抑えつけられ、先生がペニスの先/尿口からチューブを挿入、押し込まれて、尿を吸い取られた。別にもう少し待てば、尿ぐらいだすのに、何故そこまでして尿がほしいのか?ともかく、もう二度としたくない。看護婦さんって、なんとたくましい、恐ろしくもある。全裸で入院着だけ着ているので、後ろからはお尻が丸見えだった。米国の映画のシーンにでるひとこまのようだった。

 

左腕は点滴を打たれているので、トイレに行くときも、帽子掛けのような物に点滴を吊るして、自身でガラガラと引きながら、廊下を移動するのだけれど、他の患者さんからはお尻が丸見え。看護婦さんも、見舞客にも、皆に見せて歩く。モルヒネのおかげでもあったのか、自身でもおかしかった。

家族、嫁、長女、長男 そして会社の数名が見舞いにきてくれた。長男はベッドに横たわる僕を見て、日頃の習慣か、身体の上にダイブしてきた。病人だろうとなんであろうと構わず。嬉しいのだろうね。点滴の針ささってるんだけど。。。

当日の夕刻、点滴の効果か、尿をもよおし、トイレにいくと、ムズムズとペニスに違和感を感じながら、無事、山椒の実のような石が排泄された。便器の穴に吸い込まれそうなその排出された石をつかみ、左手に点滴、素手の右手に石をもって、看護婦さんの詰め所に向かい「出ました」と告げ渡そうとすると、看護婦さんは困惑した顔で、手にガーゼを広げて受け取った。で、無事退院となり、友人Mに電話をし、迎えにきてくれた。そういや朝から何も食べてない。家に帰る途中、喫茶店でカレーを食べて帰った。やっぱり生還すると一番に好きな物を食べたくなる。

【5月】 その後、N社長の意向も有り、N社長を中心に、湾岸戦争勃発:イラクに散ったカメラマンGAD-JGROSS写真展を有志とともに開催。(京都国際交流会館)当時、新聞やメディアにニュースとして取り上げられた。多くの方が彼の写真を見に来られた。僕の部屋には彼の撮った、倒れたレーニン像の上にうな垂れた兵士、一番象徴的な写真がいまでも飾ってある。時折彼の写真に向かって問う。「僕はこれでよいのか?」彼ならどう応えるのか聞きたい。その時、当時面識は無かったけれど、個展に、あの宮川一夫氏※も来られた。それから8年後に他界される。僕が黒子で葬儀のお手伝いをする事になるとは思いもしなかった。 CI実行本部、社名変更の中心的役割を行う。



パタゴニア、ベン&ジェリーとの出会い

★1993年(36歳)

販売促進本部次長

販売促進本部次長として、デザイン室、販促関連をまとめるようになる。 日本のアパレル関連には元気がなかった。当時の社長の見事な判断、計らいもあり、「米国に1ヶ月行ってこい!」と。 米国に元気な会社が有る。それを学んでくる。シンプルな使命だった。 当時、販売促進本部 部長だった僕は、東京、大阪、神戸、京都と国内営業店から1名ずつ選抜。プラス外部から2名。1名はデザイン会社の方。もう1名は、森孝之氏。森氏は、元伊藤忠ファッションシステムズの立ち上げの社長。その後ワールドの社長室長を歴任された方。僕を含めて7名、そして、現地の駐在員1名とで 米国を横断することになる。

 

NY 貿易センター健在


売上げの1%を寄付に出会う

★1993年(36歳)

販売促進本部次長

販売促進本部次長として、デザイン室、販促関連をまとめるようになる。 日本のアパレル関連には元気がなかった。当時の社長の見事な判断、計らいもあり、「米国に1ヶ月行ってこい!」と。 米国に元気な会社が有る。それを学んでくる。シンプルな使命だった。 当時、販売促進本部 部長だった僕は、東京、大阪、神戸、京都と国内営業店から1名ずつ選抜。プラス外部から2名。1名はデザイン会社の方。もう1名は、森孝之氏。森氏は、元伊藤忠ファッションシステムズの立ち上げの社長。その後ワールドの社長室長を歴任された方。僕を含めて7名、そして、現地の駐在員1名とで 米国を横断することになる。


【1月】 冬の寒い時期に出発した。 (ロスアンゼルス、ミネアポリス 、ニューヨーク、メーン州視察)米国横断、Patagonia、ESPRI、Ben&Jerryなど訪問。 なかでも、僕にとって大きな衝撃が2つあった。 1つは Patagoniaでの訪問/インタビュー 2つ目は、Ben&Jerry/インタビュー 日本国内から最初の訪問地、NYのYさんがアポイントを取り付けてくれたのがロスアンゼルス校外のPatagonia。イボンシエイナード氏が最初のコンタクトとなる。これが全てを軌道に乗せることになる。

何かおみやげを持って行こうと、悩んだ末、京都のクラフトショップに行き、京都の工芸、民芸品を風呂敷に包んで用意した。ロスアンゼルスに朝方到着し、そのまま車で移動して校外のPatagonia本社へ。案内されたのは、まず、社員食堂。肉類無しのメニュー。詳しくはここで述べないが、環境への配慮の一環である。はじめて菜食系のメニューを経験することになるが予想以上においしかった。野菜だけなのにしっかりと濃くのあるメニューだった。そして、シェイナード会長とのインタビュー。

託児所を社内に設け、何時でも育児をしながら働ける職場環境。ペットボトルを再生した糸から衣料作ったり、僕で企画作成した商品は、僕で試着し、山であれ海であれ半年かけても実際に試し、納得のいく物を、自信を持って世に出す。などなど、「目から鱗」のような話がいくらでもある。そのような哲学で職場環境で商品が作られている事などで、ビジネスモデルとしても注目されている。地球と環境にやさしい会社として世界的にも著名な企業。そんな企業の創設者とはどのような方なのか。

小柄でものしずかな方だった。風呂敷を大層喜んで頂き、ご本人も「墨絵や禅」に興味のお持ちのある、日本の精神的なものに興味をお持ちの方であった。僕の軽い日本知識が恥ずかしく感じ恐縮した。氏の哲学のひとかけらを感じた。僕には人生やビジネスに哲学があるのだろうか。当時氏の書籍はなかったから、聞く事全てが驚きだった。この会社で働いてみたいと思う方もたくさんいるだろうけれど、もし、僕がその機会があったとして、その覚悟があるのだろうか?それぐらいに氏の理念の大きさに圧倒された。

その後、エスプリや環境団体にインタビューさせて頂きながら、ミネアポリス、ニューヨークへと向かう。ニューヨークではマンスリーアパートを借り、朝起きて、事務所に行き会議し、取材レポートを作成。夜遅くアパートにもどるという日が続いた。

宿泊先のカフェ/ラウンジで、現地の駐在員Yが打ち合わせがしたいと言い出した。皆があつまり、カフェの店員がロウソクに火をつけたケーキを運んで来た。サプライズだった。NYで誕生日を迎えた。ホテルのカフェ/ラウンジの店員、そして皆が誕生祝いにそれぞれNYで買ったギフトを用意していた。全員が、トランクスのパンツ。いろとりどりのトランクスが8枚。最初で最後のNYでのバースデイ。こんなに多くの方から同時に祝福された事はない。NY舞台の映画の様だった。皆に心より感謝を申し上げる。ありがとうYさん。

 

その数日後、レンタカーを借り、メーン州、Ben&Jerry/インタビューへと向かう。NYからメーン州に向かうにつれ、雪国となって行く。僕はなれないボックスカーで皆の命を預かって雪道を走る。(写真には、貿易センターが写ってる!) パタゴニアも、ベン&ジェリー社も売上げの1%以上を環境団体等に寄付するだけでなく、自らの企業を環境や弱者を支援する事業の姿勢とそれを応援するユーザーで循環する継続可能な、ソーシャルな仕組みを目のあたりにし、今迄味わった事の無い感銘を受けた。

帰国後 エコロジー開発【EGGS】Ecology Guidance Global Society と名づけた商品開発プロジェクトを立ち上げた。



日本初:デニムの裁断くずから100%リサイクル
デニムペーパーの開発

当時は、販売促進本部・部長だった。販促を行うツールとして商品開発も一手に行っていた。僕は、マイ箸を持ち歩きながらエコロジー関連の商品開発を盛んに行っていた。

エコ関連商品開発のテーマのひとつに「デニムの裁断くずを利用した再生紙プロジェクト」があった。国内のジーンズ生産における、デニム生地の裁断くず。これは上質のコットン(綿)。いままで多くは焼却されCO2となっていた。これを、リサイクル再生紙としてできないか。日本の紙の生産から卸までの流通形態は大きな壁ではあったが、前年のパタゴニアの話や環境(エコ)という視点で話を持ちかければ、敏感な人たちには受け入れられた。取引先の印刷会社、商社のお力をお借りしながら、なんとか試作的にパルプ化にこぎつけた。そして、1年ほどかかったが試作のパルプ、紙も出来た。 試作サンプルを持って、担当営業と一緒に大手ジーンズメーカー(X)に、このオリジナルの再生紙の採用を持ちかけた。

環境問題では敏感な会社である。なんとか契約できないものかと思ったが、あっさり断られた。無理も無い。当時の紙の市場価格を大きく上回るコストである。話を持ちかけた方は次長クラスだったが、部署は資材担当だから、コストが重要だ。そこまでの決済権はない。まして、業界的にも知名度的にもポジションが違う。下請けのひとつでしかない。と見られていたのかもしれない。そんなところからの提案に二つ返事でOKがでるはずもない。そんなことはうすうす承知だった。そして、次に、自社で開発/販売する主旨を、わざわざ新聞広告原稿を用意し、再度訪ね、確認をとった。担当者は、前回同様、「御社のお好きにどうぞ」と断られた。 数日後、業界新聞に、全5段ではあるが広告を打ち出した。

当時は同業他社を一歩先を行く取り組みを行っていた位置づけであったから、反響はあった。あちこちから問い合わせが来た。しかし、一番に連絡が来たのは、(X)社の広報室からだった。実質は(X)社から呼びつけられたようなものだ。再度、担当営業と訪問し、広報室と商談。事前に提案した事など経緯を説明した。結果1年間の独占契約を申し出られた。大きな金額の契約となった。デニム裁断屑の再利用による100%デニムペーパー等、多数の商品開発事業化。もちろん嬉しかったし、結果良かったのだが、結局はなんだろうなぁ。。というのが正直な気持ちだった。

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★1994年(37歳)

僕は、この会社に縁あって入社し、ほぼ社長直轄の部署で好きにさせて頂いた。癖はあったけれど、多くの事を学ばせて頂いた。N社長とは、多くの海外に、何度もご一緒させて頂いた。国内の事業もいろんな事に挑戦させて頂いたが、いろんな技術や実績は、他のスタッフと一緒でなければ、なしとげられなかった事ばかりだ。むしろ彼らの功績であり、僕にとっては、貴重な経験としての感覚だけである。社長には、見えない強い運があった。僕はそれに乗せて頂いただけなのだ。そのように感謝の気持ちと、反面、僕は小さなものだとも感じた。それなりにいろんな経験を積んでいった。入社当時から比べると社員数も約6倍、300名ほどになっていた。当時のN社長に多くの感謝をもっている。

順調かのように思えた。しかし、家庭環境は不安定だった。妹は相変わらず精神不安定なままで、まだ携帯も無いので、仕事中の会社にも長電話がかかり自宅には朝方4時頃に電話が掛かってくる。事が事なので、電話のベルを切る訳にも行かない。その都度、電話で慰めたり、朝4時頃、車で小一時間ほどのところの妹のところへ出かけたり、かかりつけの病院まで行ったり来たりしていた。僕の妻にも負担をかけ、妻自身も安定剤を飲むほどに不安定になった。

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阪神・淡路大震災

★1995年1月17日

1995年1月17日。早朝。阪神・淡路大震災。京都だったが、かなりの揺れを感じ、とっさに横に寝ていたた娘をかばった。本能だなぁ。と思った。自分にもこんなところがあって良かった。と思った。そのまま眠り、何知らぬ感じで会社へ。会社に着くと、まだ誰もいなくて、フロアーのキャビネットが倒れていた。そのごようやく、TVなどを見て事態のおおきさに気がつく。

 

12年努めてあっさり退社

★(38歳) 年末

長く勤めた会社を退社。N社長には大変良くしてもらった。最後は会社としての役割と僕自身とのマッチングに、N社長が困っていたようだ。(社長業って、たいへんだよなぁ)僕自身もそれを理解し、潔くレールから降りる事にした。N社長から背中を押してもらった気持ちで、今は感謝している。結果として再び一からとなり、そして全く別の業界にチャレンジすることにした。

多くの部下、後輩や、先輩、そして取引会社、仕入会社のパートナーさま、また、同業他社(ライバル会社)の人たちからも、たくさんメッセージを頂いた。みんなありがとう。インターネットの創世記でもあったので、一からインターネットに関わりたいと思った。まったく新しい業界に進むので、この業界とのご縁はここで終了となる。その後、旧勤めたN社はさらに大きく発展していき、2012年には当時の売上げの4倍以上になり、社長は会長に。仲の良かった同期生Yが社長になる事になる。彼なら人望も有るしさらに発展させるだろう。2012年には個人的にY社長と東京都でお酒を飲むことになる。おめでとう!Y社長。

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インターネット創世記との新たな人達との出会い

僕はインターネットにチャレンジをする事にした。いままでにない全く手つかずの世界。参考にする人もいなかったので全てが自分次第だった。アナログ回線のダイアルアップ形式でネットにつなぎ、HTML言語の本も何も無い、モザイクのブラウザーで、独学で、不眠不休で覚えた。必死だった。年齢的にも、経歴的にも、経済的にも。嗚呼、こんなにも僕は以前の会社に社長に助けられていたのか。家庭を見る余裕等なくなった。退職金とわずかな貯金で生活を支えながら賭けに出た感じだった。一年で退職金も貯金も使い果たした。ある程度のポジション迄進み、いきなり未知の世界にチャレンジ。みな驚いた。

ネット関連にチャレンジするというと、同じような気持ちをもっている人たちが周りに集まりだした。クリスマスの夜に大阪で初めて会う人たちと集まり、ネットの未来をバカみたいな事も含めて皆で熱く語った。同様に、東京でもいろんな人たちと出会い、そしてこの時に出会った人たちとともに、このあと10年以上新たな仕事仲間となっていく。同時期、ホリエモンもスタートする。孫さんもスタートする。みんなこのころ動き出す。

モザイクブラウザー


起業

★1996年(39歳) フリー

フリーとなり、いくつか声が掛かった。就職ではなく、契約、または協業。師匠と共にワークショップ形式で仕事をすることになり、東京、大阪いったりきたりしながら、一緒にネット関連にチャレンジするA社S社長や、共にN社を去ったS氏たちと共にインターネット事業に関わり始める。携帯電話を4台もって、A社のS社長の好意により、Machintosh 240cをお借りし、 携帯電話をつなぎ、1Mバイトを1時間かけてダウンロードしたり、通信費は従量制だったので、時には数十万支払いながらのインターネットに取り組む。師の交遊関連からさまざまな人と出会い、いろんなカタチで仕事になっていく。

東京で、師匠と共に電通のネット事業のいくつかに関わる。DVD東芝の録画ファンには“録画神”などと呼ばれるほど著名な東芝・片岡秀夫氏関連とは東芝DVD事業を手伝った。「Alice」「GADGET」などCD -ROMの歴史に名を残す傑作タイトルをプロデュース。多数の受賞歴がある前田 融氏。IPサイマルラジオradikoを考案、実用化された、電通の三浦文夫氏、IWE'96は、Internet 1996 World Exposition(インターネット1996ワールドエキスポ ジション)倉敷パビリオンなどをプロデュースされた岡持充彦氏、加藤和彦氏との実験的な試みなども行った。その後、大阪では、協業ではじめたネット関連で、数多くのサイトを立ち上げていった。そして、この時期に、芦田雅喜(元オリジナル、ザ・フォーク・クルセダース) 氏と出会う。芦田氏はコピーライターとして活躍しておられその後も一緒に仕事を行う関係と成っていく。初めてお会いする人たちとさまざまな事業に参加させてくれたみなさん。みんなありがとう。

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法人化〜京都から東京へ

★1997年(40歳)

再び、僕のレールを整理し始めた。 世のデジタル化の兆しと伴い、小さい会社を3つ作った。 WEB制作会社:有限会社アートビット、デジタルフォトスタジオ:有限会社スタジオアルマ、前会社退職者とともに有限会社エイビスコミュニケーションを設立。

大阪ではA社S社長と共にB2B企業へのWEBプレゼンが連戦連勝!数多くのサイトを立ち上げた。多忙にして、どんどん家庭を見なくなった。 睡眠時間平均3〜4時間。休み無し。空いた時間は友人S氏と大阪日本橋にいっては、パソコンの機材のチェックをするのが日常。まわりの声など気にならず、それがあたりまえのネット事業と理解して日々ネット関連に明け暮れていた。週の半分は大阪本町のS社長のA社に住み込み同然でデジタル&NETコンテンツ、半分は東京のワークショップ、住み込み状態でNETコンテンツ。

東京の事務所は元麻布。まだ一般的でないネット関連に取り組みだした事から、元麻布のワークショップにはいろんな話が舞い込み、未知の案件などにも関わりだした。シリコンバレーに出向き、当時、ブラウザーでは圧倒的シェアを独占していたネットスケープの子会社でのヒアリングなども参加し、次世代のTVのインターフェースの設計にも関わった。前年にインターネットパビリオンでお世話になった、倉敷先端技術のK氏も偶然シリコンバレーで再会した。まだ六本木ヒルズ計画案の段階。いつまでも続いていく終わりの無い仕事と、その合間で息抜きとして、友人T氏と六本木の夜にまっしぐらだった。僕は夜の新宿は相性が悪いので、夜といえば六本木となる。

 

人相悪!


法人化〜京都から東京へ

★1997年(40歳)

新宿のぼったくり

アル夜。東京の仕事仲間たち3人で、いつもは六本木で飲むのに、たまには新宿に行こう!と勇んで行った。どこがよいかなぁと三人できょろきょろしていると声をかけられた「お一人様一万円!」こうしてカモ3人は、歌舞伎町のとあるビルの2Fに案内され、入り口に着いた。前払いです。「あ、なんかやばそう。。。」こういう危機察知の鼻はなぜか少々ある。。と思いながらも各自1万円払った。

 

ここでカモが確定。中へ案内されると3人は別々の席にされた。「完璧にやばい。。これはいかん」客はいるけれど、皆暗いオーラ出てるし、部屋も妙な空気。「命迄は奪わんだろう。。」と、席に座ると隣に女子が着いた。。危険臭の中で、テーブルに出された飲み物も手を付けず。灰皿もあるが、煙草も吸わず、さてどうするものかと思ってうると、女子がシステムを説明しだした。「まずシステムを説明しますね。1時間●万円、テーブルチャージが●●●円、女の子が着いたら●万円、お酒は●万円、〜〜などなど」

来た〜。初めての経験。無届店舗:超〜ぼったくりです。

一通り説明が終わるも僕は間をあけず「わかりました、帰る」と言って立ち上がろうとする。女子はかぶせるように、あれやこれやと言い出す。それでも僕は「説明を聞いただけ、飲み物にも手を付けてないし、灰皿もつかっていない!帰る!」この一点張りで何をいわれても「帰る!」ついには、離れていた友人の席に向かって「お〜い帰るぞ!」と言い出すと、友人の席に着いていた女子二人が、だだだとやってきて、手にお札をびらびらさせながら、「あんたの友達は払ったわよ!」「ほら!見て!」お札びらんびら〜「払いなさいよ!」お札びらんびら〜。。「一人はカードで払ったわよ!」っと。。まぁ〜ここまでの女子見た事無い。人間すごいね。。どうなっていくんだろうねこの人たち。。。

 

いやいや、ここは長年の経験が違うから、負けてられない。僕は「知らん!帰る!」女子はお札びらんびらん〜。。。のやり取りを見て、遂に、奥からコワモテのお兄さん登場。そして僕は再び「説明を聞いただけ、飲み物にも手を付けてないし、灰皿もつかっていない!帰る!」もう、お店の中でワイワイしてるの僕の席だけ。あとはBGM以外お客さんシ〜〜〜ンとしている。それで、コワモテ兄さんが「わかったわかった、他のお客さんの迷惑になるから静かにしてくれ。お金いらないから静かにして座っていてくれ。」と言う。再び僕が「今言ったね!お金いらんと言ったよね!」コワモテ1時間「わかったわかった!」僕『よーし静かにする!」と言って何も飲まず煙草も吸わず座った。なぜか中途半端にもまだ隣に女子が座っているので「あのなぁ〜こんなことしていて気分よいか〜、あのなぁ〜。。」と中途半端にも友人の分は助けもせずに隣の女子を約1時間説教していた。隣の女子、一生忘れられない苦痛の時間だっただろうなぁ。。しかし中途半端。。

これいらい新宿は行かなくなった。友人二人ごめん!


六本木は特別だった。夜になると町中が外国の方々で埋まっているような時代。まぁ〜いろんな方々に遭遇した。世界、日本の著名人から、いろんな事情があって来られた人、僕の中でのてっぺんからどん底迄。さまざまな国の人と出会い話をした。握手をした。ハグをした。笑い合った。泣いた。世界中のミュージシャン、格闘家、俳優さん、作家、スポーツ選手、コメディアン、とんでもないお金持ち、とんでもない一般人、ボンビーなのに幸せ満タンな人、びっくりするような境遇の人、オカマさん、ちょい裏街道の人。。。。さまざまな人のリアルに遭遇した。この頃、俳優マット・ディロンの従姉妹トレーシーディロンと仲良くなり、「来年はアル・パチーノ監督の作品に出るの」って言ってたので、その後パチーノ監督の映画見たけど見当たらなかった。日本はで公開してないのかなぁ。。

六本木で出会い友人としていまでもおつきあいの有るのが矢沢のエーちゃんとも交流のあるソウルバーのマスターゲンさん。エーちゃんなのにソウルバー。などなど、愛を込めて笑えます。ここは書き出したらきりがないし、もっとエピソードをもつ方々もいると思うので僕はこのへんで。世界の中心にいるような気がした時期。またいろんなヒトたちと出会い、自分の人生の苦のようなものが、たいしたことないと考えられるようになったきっかけでもある。何も解ってなかった僕に、法人化に尽力していただいたS社長さんをはじめ、みなさん、本当にありがとう。



妹他界

★1998年(41歳)

妹の旦那から泣きながら連絡があった。 妹は、突然 僕の妻の誕生日に生涯を閉じる。36歳。 【11月13日】金曜日 妻にとっても、生涯苦痛の日と重なってしまった。 にしても、僕には【13】という数字が付きまとう。

妹の葬儀の日、喪主として立った。妹の数人かの知人らしき方々から苦言を浴びた。妹の死に至迄の、兄としての責任を問われる苦言をあえて向けられた。黙って受けるしか無かった。父親違いの妹として、自ら命を粗末にした結果は、兄としての接し方にも要因があったと自覚している。もっと出来るコトはあった。いまさら自分を責めるコトはないとしても、自分の生き方に覚悟を突きつけられ、受け入れる事でしかない。妹の死により、僕をそれぞれに評価するみなさま。あえて僕はここに記します。僕の評価はどうであれ、それはあなたの視点の評価であり、否定もしない。受け止めます。しかし、僕の生き方自体までを傷つける事はできない。僕の生き方の覚悟は僕自身であるから。。。そして、妹が母の為に自ら建てた墓に眠る事となった。これで、妹は楽になったのだろうか?そんな事を考えていた。妹の実の親父、他界。風のたよりに聞く。短い間だったけど、苦痛の時も楽しい時もありました。もう一人の親父。ともかくありがとう。

母親が他界した年齢。あ〜ここまで生きちゃった。

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師匠の父 他界

★1999年(42歳)

師匠から電話があった。1999年8月7日 宮川一夫氏死去。 多くの世界的な作品を世にだされているが、当時は知るよしもなかった。僕が知らずにみていたものはほんの少し。羅生門、用心棒、悪名シリーズ、座頭市、東京オリンピック、悪霊島、影武者、瀬戸内少年野球団、サントリーのトリスのCM『雨と子犬』などなど、縁とは不思議なもの。生前、何度かお目にかかった。白髪の貫禄のオーラが印象的だったが、まさか黒子としてお手伝いをするとは思いもしなかった。共同通信社に連絡をとり、訃報の知らせを連絡する。著名な俳優の方々も含め、さまざまな方の参列者を目のあたりにする。海外からも著名な監督さんからのファックス。僕は葬儀の受付の指揮や香典関連の管理などを担当。5,600人の参列者。

秋になり、京都六曜社という珈琲屋さんで、ふと思いつきの個展開催を思いつく。いざ描きだそうとしても描けない。20代までは、和田誠氏や、永嶋慎二氏などに憧れて、好きに任せて描いてたのに、すっかり請負デザインの仕組みにはまり込んでいた。年末、それもあって、バルセロナ/マドリードへ。長年の憧れでもあった、アントニオガウディの建築物を観に行く。アントニオガウディの創りだす、あの有機的なフォルムと色使いが好きだ。バルセロナでガウディを見て圧倒された。日々、心飛び回るように感動した。そしてその感動と受けたインスパイヤを元に翌年の為の個展/作品に表した。 使ったスペイン語。オラ!とカフェコンレチェポルファボーレ。(カフェオレください)これしかしゃべってないし。

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個展 just take it! 開催

見た人が気に入れば、持ち帰って良し。作品が欲しい人は「なげ銭式」金額は持ち帰る人にお任せ。約20点の描きおろし。あえて、友人、知人には知らせなかった。京都アルファーステーション(ラジオ)で紹介された。知らない方々がどれだけ見て頂くのだろう。どんな反応なのだろう。そんな思いだった。3、4日で完売。作品はどこかで飾られてあるのか?それとも、たき火の具となったか、全く知らないけれど、そこに執着はない。初めて会ういろんな方とお話させて頂く機会となった事が楽しかった。作品を持って帰って頂いた投げ銭をもとに、個展の開催となった町家を貸して頂いた松川恵一氏とスタッフでの食事代にした。松川氏の手作りの食事会。松川さんありがとう。いまは、僕のiphoneと、プライベートHPの中に写真として小さく残ってる。このiamtamの表紙のレコードペイントもその時のもの。個展に来てくれた、名も知らぬみなさん、ありがとう。

JUST TAKE IT


京都に家を建てる。完成する前に、家族を残して京都を離れた。 東京で一人で暮らし、お茶の水の事務所で借りずまい半年、その後下北沢で一人暮らし。ゼロから仕事に集中しようと考えた。インターネットも広く普及し、仕事には勢いがあった。もうひとつ会社を作った。株式会社イベント・アイ。ネット関連の企画営業、ディレクション関連を行う会社。またしても取締役役員。あちこち、出資して、役員になってるだけで、お金も湯水のように出て行く。暮らしは楽にならない、安定しない。代表者でもなく、小さな会社の役員/出資をしても、下北沢のワンルームで自炊している。何してんだか。それでも、家族の生活は守らなければならない。これは絶対責任と働いた。



911

★2001年(44歳)

【2001月09月11日】同時多発テロ発生。その日は仕事も早めに終わり、僕は事務所の広尾から下北沢のアパートに電車で移動している最中だった。夜ごはんの食材を下北沢のコンビニで買いネギと大根がはみ出したポリ袋を持ちながら歩いている時に、友人から「911概要」の電話がかかってきた。あわてて、アパートに戻ろうとして玄関の扉まで戻ってきたが、部屋の鍵を事務所に忘れてきたことに気がついた。『あ〜やっちまった」



911

★2001年(44歳)

ふたたびネギと大根がはみ出したポリ袋を持ちながら京王線に乗車、山手線に乗り継ぎ、広尾の事務所にたどり着いた。テレビをつけると、崩壊する貿易センターのニュースで、貿易センターの状況とはうらはらに、某国の子供たちの喜ぶ顔や大人の顔の映像が流れた。

ものすごい嫌悪感がはしった。人間に腹が立った。。。。

「なんだ人間って!」


僕がNY在中なら、健在なら、現場に行って何かがしたい。ゴミ掃除でも何でもいい!

ユナイテッド航空93便テロ事件「この機に乗り合わせた方々、勇敢に立ち向かった方々、自分だったらどうした?」
はたして、僕に何が出来るんだろう。。 人間の愚かさを深く考えさせられた。悲しさより怒りを感じた。

以来9年間タバコを絶つことになる。昔の友人が何人か連絡して来た。 「大丈夫か?」 こういうのは、身近な友人より長く会ってない遠くの友人たちが決まって連絡をしてくる。



下北沢を去り広尾に移る。機会あり、34年前に買った最初のLPに参加しているオリジナル、ザ・フォーク・クルセダーズの芦田雅喜氏と再会、ご一緒に仕事をする機会に恵まれた。 仕事の幅が変わって行った。

そのころ、娘がヒップホップのダンスの大会で京都代表として、東京有明スタジアム決勝大会にやってきた。会場に出向き、久しぶりの再会も会話は無かった。う〜ん。。はずかしいのだろうな。。僕も何を話せばよいのか解らなかった。久しぶりだし。娘のチームの演技が終わった。結果発表迄ずいぶん時間があったので、僕は広尾の仕事場に戻った。すると娘からのメールを着信。「優勝した!」やった!僕はどのように返信するか考え、考え、勇気をだして初めての言葉を使って返信した。「自慢の娘だ!愛しているよ!」と心を込めて短いメールを送った。するとしばらくして、娘から返信が来た。「じゃぁ、バーバリーのマフラー買って。」渋い返信。



ザ・フォーク・クルセダーズ

★2002年(45歳)

34年ぶりに、ザ・フォーク・クルセダーズが、新結成される。縁有って、師匠ラインで加藤和彦氏や北山修氏、坂崎幸之助氏、オノセーゲン他、錚々たる方々と、期間限定ではあるけれどご一緒にお仕事をする事になる。


結成記者会見から、解散まで、約半年。オフィシャルHPを任され、毎日のようにビデオ録りやWEB更新、バックスタッフとしてお手伝いした。嵐のような一年間。

フォークルオフィシャルサイト〈クリスマス版〉


★2002年(45歳)

従来のWEB関連のユーザービリティ、インターフェースとはほど遠い仕様で進めた。WEBのデザインに関する意向は加藤和彦さんから直接指示があった。従来にないもの。そしてほぼ、毎日更新。毎日撮りおろし画像や、新曲の進捗状況、クイズや、メンバーからのメッセージやBBSなどでのコミュニティなどなど、技術や定番の思考に捕われない新しい試みが続いていった。新曲のレコーディングのスタジオや、加藤さんの自宅に向かい、毎日ビデオを撮り、ゲリラライブに同行し、ビデオ収録。その合間に加藤さんからの思いつきのような宿題を受けて、夜に制作し、連絡し、メールでのやりとり。更新。

そんな日々が半年続いた。その間、ライブ版含むアルバム3枚。発表。2002年大晦日の昇天(解散)はアクセス10万以上のアクセス集中で一時回線パンク状態に、メンバー辞世の句と共に昇天解散。その6年後に加藤和彦氏自らこの世に決別、昇天。再結成プロモーションから密葬お別れ会のプライベート写真まで担当する事になる。これは、小さいときに初めて買ったフォークルの「さよならコンサート」の宿命だったと思っている。

そして、34年ぶりにザ・フォーク・クルセダーズのCD「戦争と平和」を買った。 クレジットにある、WEB狂言師とは僕のことであります。
加藤さん、師匠、そして関わった方々、みなさんありがとう。



訴状

★2003年(46歳)

【夏】 熊本地方裁判所(玉名支部)から突然A4版の分厚い郵便物が届いた。熊本なんて行った事もないのに、なんだろうと思い、開封してみると


口頭弁論期日呼出及び答弁書催告状 被告 当書の事件について、原告から訴状が提出されました。 当裁判所に出頭する期日及び場所は下記のとおり定められましたから、出頭してください。


なんだ? 訴えられたみたい。

訴状


訴状

★2003年(46歳)

裁判所からの難しい言葉で長々と、その理由等が記載されている。130ページの内、半分以上は家系図と被告者リストである。 【妹の父方の家系図】 昭和42年(1967)に熊本荒尾市の土地所有権移転に関する件でそれに関わる諸費用の事らしい。約200万円弱。原告者は2名被告者は178名。僕はその1人らしい。どのようないきさつか解らないがその土地は、妹の父のその親の親あたりで誰かに貸して所有権がどうのこうのになって、そうこうするうちに家系が広がって、子供、孫、ひ孫含めて178名になって、熊本地裁は原告者の言い分を認めて起因する家系、全国に散らばる178名に、今回の訴状、書類一式を送ったようだ。 さすがに呆れて笑えた。

すごい家系図が手に入った。でも、既に妹は他界し、且つ僕は血縁ではないけど。国はなんとこの事に凄い労力をさいて、この130ページほどの資料を作成し、土地所有権移転の諸費用約200万円を、178名に支払い、出頭を命じたようだ。熊本には行った事がないので、温泉もありそうなので、ちょっと行ってみようかな。と思ったりもしたけれど、後々、引きずり何度も出頭するのも面倒なので、近所の弁護士さんにお願いして処理してもらった。それでも弁護士さんの書類作成費用で6万円ほどかかってしまった。「6万円で家系図を創れた」とこの件を消化した。以来、熊本からは、何も音沙汰無し。

なんだかなぁ。。 熊本いけたなぁ。。とか、思ったり、全国の被告者がこんな風に面倒だから、弁護士さんに頼んだりすると相当な金額になる。弁護士さん一手に受けたら一仕事だよなぁ〜なんて考えたりした。降って沸いたような話の一つ。 正直、暇なら、熊本へ行ってみたかった。

娘が東京にやってきた。東京のダンススクール(2年制)に入学。数年ぶりの娘との生活。あらまぁ、こんなに大きくなってる。大人の下着つけてるし。。不思議な感じ。。これ以降娘との二人暮らし。娘いわく、「これをきっかけに仲良くなった」と言っている。泣きそう。。



ファンキーピープル

★2004年(47歳)

この頃、僕は六本木のソウルバーによく通っていた。 ここによく集まる人々。その過去と現状のファンキーさに親しみを覚え始めていた。 どちらかというと僕の方が年齢は上だが、気さくに友人として関わってくれる。 僕にとっては、数少ないファンキーな仲間である。 六本木の懲りないファンキーピープルはその後も関係性は続いて行く。


はじめてふらっと入ったソウルバー。不器用な感じで「ソウル好きですか?」と声をかけ頂いた。「まぁ、何となく」といつものように煮え切らない返事をした僕。ゲンさんありがとう。あなたたちはファンキーで今を生きていると教えてくれている、数少ない友人です。19歳の頃のようなあの時を思い出します。ありがとう。ゲンさんの創る「モスコミュール」は半端じゃない。初めて美味い!とおもうモスコを飲んだ。以来、他では「モスコミュール」は飲まなくなった。

絶品のモスコミュール


会社合併

★2005年(48歳)

株式会社アートプロダクツジャパン、有限会社アートビット、株式会社イベント・アイ。3つの会社が合併し株式会社ジゴワットとなった。独立して約10年。一区切り。だいたい10年ぐらいで、大きな流れが起こる。同時期スタートした、ホリエモンや孫(ソフトバンク)さんを見て、改めて小さな僕が見えてしまった。何やってたんだ!

 

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KすけのTrainspotting

3月5日〈友人の誕生日〉小雨、小雪のちらつく日

その日、仕事も六本木遊び一緒の友人を、是非お祝いしようということで、夕刻から僕、Tクン、Kすけ、他女子2名。5人集まった。恵比寿にある、ホルモン焼き(得ちゃん)でしこたま食って飲んで3時間くらい。結構飲んで酔っぱらっていた。それじゃぁ次は六本木だ〜ということで、タクシーに乗り込み5人で、One eyed Jack 外人BARに向かった。

今はもうないけど、当時のOne eyed Jack は大箱のお店で8割位は外国の方々がおとずれるお店。店員さんも外国の方。日本じゃないようところ。ここでもいろんな人に遭遇した、MBAのプロバスケット選手、俳優の方、格闘家、ミュージシャン、デュランデュランのなどなど、著名な方々が訪れ、地下へ降りる階段には、びっしりと著名な方々のスナップが飾られていた。また定期的にダンスショーも行われていた。僕は、ミュージシャン、デュランデュランのメンバーたちとも遭遇した。

話を戻って、One eyed Jackに入ると、二人ほど合流した。会話はさっぱり覚えてないが、僕は「クイッ」と飲む間に、Tクンは 「クイッ、クイッ」と、Kすけは「クイッ、クイッ、クイッ」と暴飲。飲んでも飲んでも、ボトルやシャンパンやイチゴなどが出てきた。もうKすけが相当酔っぱらっていて、知らないうちにどんどん追加で頼んでいた。2時間ほど飲み浴びた。深夜0時を過ぎたので、次は物真似ショーパブ「STAR」に行こう!ということになり、お勘定をするも「XXX円」どっひゃ〜といいながら、Kすけは、「大丈夫大丈夫」と言いながら、「これで!」と言いながら、名刺や定期券、どこかのサービス券や意味の分からないカードを出して支払いしようとしたので、お店の人も困惑していた。。

ともかく無事に支払いを済ませて、歩いて10分ほどの所へ5〜6人で向かうが、なかなか進まない。Kすけは、電信柱に捕まったりして進まない。ようやく引っ張って「STAR」までたどり着き、Tくんたちは先に入場したが、お店の方から「すいません、この方はご遠慮願います」と言って泥酔のKすけを拒んだ。

確かに。こりゃなにをしでかすか解らない状態だったので、僕はKすけを大通りに連れもどし、タクシーを捕まえて、放り込み、運転手さんにKすけのマンションの場所を告げ、2000円を渡して「Kすけ大丈夫か?寄り道せずに帰れよ!」というと「ウィ〜ス」と。午前1時過ぎ。一安心して、僕は皆が待つ「STAR」の戻った。やんやかんやで3次会も終わり「飲んだ〜楽しかった〜」とTクんも僕も、他のメンバーも帰った。僕は家に戻るとAM4時だった。バタンと倒れるように眠った。

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KすけのTrainspotting2

3月6日〈翌日AM8:00〉小雨、小雪のちらつく日

AM 8:00頃、部屋をノックする音がする。
誰だこんな時間に。。と思いながらドアを開けると、Kすけが両腕を組みながら震えて立っていた。
額の右から血を流し、はだしで、薄汚れたブリーフ一枚で。


まるでトレインスポッティングのポスターのポーズを思い出した。

こんな感じでドアの向こうに立っていた
朝早くから見たくないもの


なんじゃこりゃ!

僕はきっと追いはぎにあったのだ!と思った。乱暴され犯されブリーフ一枚以外は盗まれたのだ。本人に尋ねると「何も覚えてない。気がついたら裸だった。部屋の鍵も服も無いので田村さんとこに来た」と言う。「???何も?」ともかく外は小雪が舞っているので、Kすけに服を着させて、お風呂を沸かして入るようにと言い残し、僕は午前1時から朝の8時迄の彼の軌跡のヒントを探しに部屋をでた。

まず、Kすけの服を探そう!と思い、タクシーの運ちゃんに告げた「恵比寿橋」近辺、渋谷川の川底あたり、僕の部屋からKすけの部屋のルート。何も手がかりは無く、Kすけのマンションの部屋のドアの前まで来た。来た痕跡がある。ドア上部に血痕がかすかにある。ドアは鍵がかかっている。ドア前にピンクのチラシが散在してる。。よし、次は仕事場だ!歩いて10分のルートにも痕跡はなかった。仕事場のビルは8F建てのフロアー単位で事務所借り切りで、5階にある。エレベーターで5階迄あがり(エレベータドアと事務所のドアの間に少しスペースがある。)エレベータが開くと、荒らされていた!やばい。Kすけか、それとも泥棒か。。いつもは会社のスタッフの女子が、ガーデニングにして数段いろいろなお花や植木鉢でかざってあったのが、全てひっくり返され、泥だらけになっている。なぜか、消化器が2本ひっくり返っている。事務所のドアを開けようとすると、鍵穴に別野金属のようなものが詰まっていて取り出せず、開ける事が出来ない。

まいった、これはなんとしても事務所に入って確認しなくては!事務所の裏側には非常用階段があり裏口からのドアからでも入る事ができる。僕は1F に降り、非常口の階段がしまっているので、泥棒のようにビルの壁面を登り侵入可能な高さのところから、非常階段にたどり着き、事務所の裏口のドアから入った。。。平和である。Kすけも誰も入った形跡がない。まずは、一安心。。。再び裏口から、外へ出て、明日からの仕事や他のスタッフ出入りや、鍵の事もあるので、大家(8Fに住んでおられた)さんに連絡しなくてはと思い、エレベータで8Fに向かった。どのように説明しようかと思いながら8Fのエレベータードアが開くと。唖然。。。

Kすけの上着、ズボンが奇麗に折り畳んで置いてある。財布も鍵もある。。。
消化器が置いてあるべき所に消化器は無いが血痕がある。

やれやれ。

〈田村の推測〉

5Fに現れ、ドアを開けようとしたが違う鍵を差し込んで強引に廻したところ鍵が折れて、ムシャクシャしてガーデニングを荒らし、お風呂に入ろうとして、8Fに進み上半身を脱ぎ、ズボンを脱ごうとしたところつまずいて消化器に頭をぶつけ切れて出血し、何を思ったか消化器を持って5Fに戻り、消化器を置き、自分のマンションで風呂に入ろうと思い、明治通りを駆け抜け、ドア前で再度頭を打って血痕を残し、我に返った。

〈Kすけの告白〉

ピンクのチラシの散在は、ブリーフ1枚では寒いと思い、小さなピンクのチラシを数枚からだに貼れば少しはましかと思い、その後田村さんとこに助けを求めにきた。

僕は、5Fを掃除し、Kすけの服、財布、鍵などをもって、震えるKすけの元に戻った。(生きていてくれてよかった。つくづくそう思った。)

※Kすけの誕生日は、母の命日。彼は僕を慕ってくれる数少ない友人。



売上げの1%以上を寄付する!LLC設立

★2006年(49歳)

インターネットの事業に着手して、再び10年を経て、いままでの仲間との協業から一区切りして、僕を主とした会社を起こすことにした。東京のワークショップで共に働き、六本木遊びのT氏と共に設立。もうこれは企業ではないのかもしれない。僕という個(観念)を法人化したものであって、僕の思考とそれに関わる範囲での実験的法人なのだろう。長年の間やりたかった、売り上げの1%以上を毎年寄付する会社を作った。米国横断、Patagonia、Ben & Jerryに出会ってから13年かかった。



売上げの1%以上を寄付する!LLC設立

★2006年(49歳)

今までの免罪符なのかもしれないけれど、強制的でも、何か役に立つように寄付する。そう決めた。黒であろうが赤であろうが必ず。それがどうなる事か解らないけれど、決してそれは、多くの企業本来の姿じゃないかもしれないけれど、いまは、それが大事だと信じた。生命保険やいろんなものを解約してお金を作り、一年ちかく給与をとらずに会社を動かした。預金もそこがついたところで、ようやく仕事が落ち着き始め、人も採用し、新たなスタートを切った。大きな目標売り上げを目指すのではなく、人間が中心で、世の中に役の立つ、人間好きな会社にしようと思ってスタートした。

会社法の改正も有り、日本では5月1日施行の会社法により新しく設けられた会社形態合同会社 LLC (Limited Liability Company) をモデルとして導入されたカタチを採用し、日本版LLCとして出発した。当時、あのスピルバーグのドリームワークスも合同会社だったから、コンテンツ系の会社にしたいと思う気持ちだったが、そんな甘くはない。なんたって無名ですから。いろいろ「なぜ合同会社?」と聞かれたけど説明が結構面倒くさかった。でも自分で決めたんだから、売上げの7年間は1%以上を寄付する。なにがあってもね。そう覚悟した。以後7年間寄付をする。(後にアップルジャパンもLLCとなる。)

寄付先は、関係もあったので、NGO,NPOなど社会に貢献する教会、団体、個人など。一年ちかく給与をとらなかったしそのためあらゆる保険などを解約し生活費に当てた。うわぁ会社って大変。でも好きな事できるし楽しい!代表者ってバカみたい。な覚悟したんだから最後迄やりぬくぞ!何の為にいつ迄やるんだろ。いつか楽になるのかな?こんな気持ち誰も解っちゃくれないなぁ。。などなど。デザインや好きな仕事より、生き方まで含めて、気持ちがアップダウンしながらの日々だった。



訃報のはじまり

★2007年(50歳)

【4月】 一期終了。黒字。 売り上げの2%以上を寄付。なんとか徐々に売り上げはあがり、生活できるようになっていたった。

ある夜。代官山でばったり30年ぶりに塩次伸二氏に逢った。ライブ後の移動前だったので挨拶程度の話だったけれど、翌年の事は知る由もなかったので、これが最後となった。

僕のいよいよ50の誕生日となる前日。

高校の友人H氏が他界

彼は東京で立派な会社の代表だった。社葬に伺った。30数年ぶりに合うのが社葬での対面となった。僕の視点でしかないけれど、僕よりは普通に育ち、普通に学校へ通い、健康そうで、明るく元気そうに見えていた友人知人たちの訃報が、この年より、あいついで飛び込むようになる。僕の順番を考えるようになる。ど〜考えたって、僕の方が先だろう!って。違うか?

 

イエデボーイ

★2007年9月9日

些細な事で娘と大げんか。
大騒ぎ状態となって、となりの住人の彼女?らしき人がおしかけて来て、部屋のドアを痛烈に「どんどんどん!」とノック!した。ドアを開けるなり、僕に向かって「何してんのよ〜〜〜!」と怒鳴られ、部屋の中の娘は「わーっわーっ」と。もう回り近所大騒ぎ。ついに5階の大家さんまでやって来て、僕は慌てて「大丈夫です!大丈夫です!」って弁明するも、隣の女子は「あんた、大丈夫じゃないわよ〜何したのよ〜」って。。ともかくなんとかお引き取り頂いたが、娘は出て行った。

初めての娘との大げんかで、僕は深く落ち込み、娘にも、皆にも合わせる顔がなく、簡単な荷物を持って、その夜に大人の家出を決行。

向かった先は事務所。毎日外食し、寝袋で生活し、銭湯通いでコインランドリーで洗濯。嗚呼懐かしい十代の頃を思い出す。。見る見るうちにデブになり、すっかり銭湯の人たちとも顔なじみになり、あれよあれよと言う間に3ケ月も過ぎ、年末を迎えた。

もうすっかり寒いし、そろそろ仲直りしようと決意。謝る言葉も用意して、一緒に鍋でも食べようと思い、正月分までみっちり食材を買い込んで、大晦日の夕刻に家に戻った。

鍵が閉まっていたので、先に鍋の用意でもして娘を迎えようと思いドアをあけた。

娘がベッドで寝ていた。

男性が1名そのそばで座っていた。

「・・・」

僕は、せっかく用意した「謝る言葉」も消え失せ、たんたんと鍋用の食材を広げた。

男性は気まずくなってお帰りになられた。
それからしばらくして、娘も出て行った。

僕は、溢れんばかりの鍋の食材を、一人で食べながら正月を迎えた。

はっぴーにゅーいやー



リーマンブラザース破綻

★2008年(51歳)

【正月】 東芝HD-DVD事業終息発表、次世代DVDとしての企画争い、東芝陣営HD-DVD、SONY陣営Blue-rayで、最終的に東芝がHD DVD事業から撤退を発表。 僕は、この東芝DVD事業部とDVD立ち上げ時代から10年ご一緒した。DVDの先頭に立っていた東芝が、次世代ではSONYに譲ることになった。そういえば、ビデオ機器を初めて買ったのもTOSHIBA製のベータ。だけどベータ撤退。またしてもTOSHIBAとSONYの絡み。

二期終了。黒字。 売り上げの1%以上を寄付。 【春】 スタッフ退社 【夏】 奇しくも、リーマン・ブラザースの仕事を請け負っていたが。 その半年後、リーマン・ブラザース破綻。 売上減少 投資資金 株崩落、為替円高など 資金半分以上が損失 レールから外れだした。 アップルの株も持っていたが、売り払った。。(その後アップルはマイクロソフトを抜き時価総額1位となる。株をもってりゃ4倍にはなってたね。。)どこかで間違えたのか。はっぴいえんどの「お正月」の歌のような気分だった。


〈プチ出来事〉 9月12日
行きつけのBAR 4人同時解雇

六本木のソウルバーのファンキーピープル4人が同時解雇となった。行きつけのBARが一つなくなった。結構ショックで、翌日ぼ〜と考え事しながら洗濯してたら、携帯を洗濯機にかけてしまった。3時間コースで たっぷり洗ってあげました。 柔軟剤ハミング(スタイルフィットピンクのやつ)もたっぷり入れました。 いつもより多くいれました。とてもよい香です。皆さんの連絡先は綺麗に消えました。2年ぶりの洗濯ですもの。 お気に入りの携帯Media Skinでした。

 

12月2日(日)、金魚の千秋楽。【R】さんのラストステージなので、彼へのプレゼント(BAPE)を買いに原宿に出かける。事前にネットで調べ、ディオールの裏側と確 認した。しかし、店は無かった。。。何度も徘徊したが見つけられなかった。そもそも原宿もほとんど行かないし、このブランドSHOPも見た記憶が無い。携 帯でも調べたが不明。もう7時30分だし、食事と映画にでもと渋谷に向かった。パルコ3の前のシネクイントに着くと「自虐の詩」が面白そう。しかし既に 30分過ぎていた。。。残念。これも空振り。

諦めてパルコ3を、入ったところと違う出口にでると 目の前は (BAPE) の正面だった。 小さな奇跡または必然。 宝物を発見したような気分だった。人間 徳が基本 と改めて思った日であった。 精進します。

上段:ゲンさん、下段:僕


登山チェリーボイ

瑞牆山 2008年09月23日

山梨県 標高2230mの山、 奥秩父の山域の主脈の一つ に向かう。 トッドスキナーの「頂上の彼方へ」本を読んで。


その 山の頂上の その彼方を目指し、その準備。 もちろん、最低限の必需品を選別しながら荷造りをしている。 すごく シンプルな荷物。
いつもは なんて荷物の多いバッグなんだろう。と、反省するくらい最低限に選別している。 財布の中身も最低限。 クレジットカードも無い、どこどこの会員証も、ポイントカードも無い。ついでに部屋も片付けている。 炊事場の食器も戸棚に片付け、テーブル周りも、本棚も整理、ベッド周りも いつもよりきちんと整理している。いつもと違う。。 まるで、遺書を書きそうな勢いで、身辺を整理している。

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登山チェリーボイ

瑞牆山 2008年09月23日

山の頂上へ向かう ということは こういう事なのかもしれない。頂上へ行けば、何か考えられると思って山に登ったけど。。。 何も考えられんかった。 それどころじゃなかった。目の前の一歩が精一杯。 「あなたの経験や考えは、山は知ったこっちゃ無い」それが答えなんだ。。。

ソウルバーの常連の一人、Nさんに連れてもらっての初登山。初心者コースだよ〜と言われてたので、1週間前から身体を調整する程度の準備で当日になった。昨日までの雨があがり、空気が洗濯された超奇麗な晴天で迎えわくわくしながらのチェリーボーイ。

すいません。なめてました。。。まだ序盤にもかかわらず、心肺がつぶれそうで、早くもギブアップ寸前。。体中の力がもう入らなくて穴という穴からいろんなものが出そうだった。。さんざん連れて行け〜とおねだりしてたのに、Nさんに迷惑かけるしギブアップも出来ない。なんとか必死でフラフラになりながら付いていった。そして約3時間後頂上。

 

絶景。言葉無し。

隣の岩山にはロッククライミングの人もいる。Nさん大感謝!ありがとう!

「頂上の彼方へ」トッドスキナーの本を3回買った。全部人にプレゼントした。良本だから是非読んでほしかったから。今は手に入らない。中古で7000円以上のプレミアになってイルし。。。

 

塩次伸二氏他界

10月19日

日本屈指のブルースギターマスター、塩次伸二さんがツアー先の栃木県佐野市でライブ直前に心不全で倒れ治療の甲斐なく10月19日午前0時20分お亡くなりになられました。 まだ僕が京都でライブハウスでバイトしているときに 毎日のようにお会いしてた。 住まいも近く、銭湯でもよくおあいした。 銀閣寺ちかくの定食屋でもよく、ご一緒させていただいた。 伸ちゃんから頂いた、ジョン・リー・フッカー (John Lee Hooker)のアルバムが僕の宝物となった。 みなから 伸ちゃんと慕われた あのころが懐かしく思われます。 最後にお逢いしたのは去年の代官山でばったり。 それが最後と。。。 京都をこよなく愛された、哀悼の意を込めて。

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他界の嵐

★2009年(52歳)

【4月】 三期終了。赤字。 売り上げの1%以上を寄付。 寄付分が赤字を招いた。

リーマンショック以後、仕事は激減。で寄付する余裕も無くなった。決算時の業績数字を見て迷ったけれど、売り上げの1%以上寄付と宣言した以上は赤字になってもやむをえんという頑固な判断だった。3期連続黒字というのは技術的には出来たが、あえて、馬鹿な美学をとった。僕だけの為に美学貫いて何になる。昔から変な気骨な人好きだから、解んなくなって来たら、初志貫徹。僕の美学が判断基準となる。だからいつまでたっても、扱いにくい人になってしまうのだろう。

【5月2日】

忌野清志郎氏他界

特に接点は無かったのだけれど、昔の友人が何人か連絡して来た。 「大丈夫?」 別に風貌も似てないし、接点も無いのだけれど、忌野清志郎氏他界で、僕を思い出して心配になったらしい。それで連絡して来た。1年とか5年とか、全然連絡を取ってないような友人ほど、このような連絡をしてくる。もしかしたら、現在進行中の友人よりも、こういう友人のほうが僕の事を知っているのかな、と思ったりもする。

【6月25日】

マイケルジャクソン氏他界

同世代のミュージシャンが続けて亡くなって行くのがとても妙な気がしていた。 いきつけのソウルバー、ファンキーピープルたちは、ショックを受けていた。中には「THIS IS IT」のコンサートチケットを持っていた人もいた。彼曰く、「マイケルは死んでない。だからコンサートに行く」、日本でマイケル追悼のダンスに呼ばれる人もいた。



【10月16日】

加藤和彦氏他界

午後、師匠と仕事関連で加藤さんの話をしていた。その夜、僕は、呑気に六本木で飲んでいた。

【10月17日】
翌日朝、師匠から連絡が来た。 奇しくも、大阪フェスでの解散の日から43年後の同日に加藤和彦氏他界。訃報を知る。昨日加藤さんの事を話してたばかりなので納得いかなかった。悪い冗談か。。半信半疑。信じれなかった。なにかの誤りでは無いかと思った。しばし、じっとしていた。13時にヤフーの速報に流れた。嗚呼。。事実なんだ。この事をどうすれば消化できるのか解らなかったので自身の気持ちの整理の為に、すぐに明治神宮に向かった。いつもは感謝で参拝するのだが、「何故?」と訪ねた。もちろん応えは無い。 その夜、一人で「答えの無い答え」を考え巡らした。

【10月18日】
夜、師匠とザ・フォーク・クルセダーズのオリジナルメンバー、そして事件の当日の夜、加藤さんの件で京都で奔走されたいたご友人たちが関西から駆けつけてこられていた。夜遅くまで一緒にお酒を飲みながら、この2日間の状況を聞いたり話したり、奔走してたりの様子や、明日の葬儀の話をしていた。僕は、まだ消化できてなかった。だって、亡きご本人を見てないのだから。僕のイメージではまだ、笑顔の加藤さんしか思い出せない。


【10月19日】密葬
葬儀が始まる前に棺におられる。ご本人を見る。この時、はじめて、やっと事実として身体の中に入って来た。なんとも表現できない。ザ・フォーク・クルセダーズ新結成の時に、約8ケ月、仕事として映像を録り続けてたが、今回は葬儀の一部始終を、親族用の記録写真を役目。奇しくも、塩次伸二氏一周忌。この写真は、ご親族にお渡しするプライベートのもの。どのようにすればいいのやら。かろうじて、その役目があるから、冷静さを保ちながら淡々と写真を撮った。涙でファインダーが見えなかった。僕は葬儀が終わりいくつかのピンぼけ写真を削除しご親族用にプリントして、関係者にお渡しした。初めて氏のバンドの解散LPを買ってから、41年後に、氏との関わりの僕の役目はここで終わる。

縁は不思議だ。妙なものだとつくづく思った。写真を撮っているときは、役目があったので、なんとか冷静さを保ったが、その後、僕は2週間泣き続けた。仕事をしていても、思い出し、涙が止まらない。あとからどんどん辛くなった。そして、最後にはこのような終わり方もあるのだ。と言い聞かせ消化しはじめた。しかし、僕には加藤氏のような功績もないし、我ながら小さな人間だという事を実感し呆れてしまった。

 

思考が関係性を左右し、思考が人生を創ると思っているけれど。振り返れば、この人生は本当に望んだのかわからない。僕の思考以外に働く、大きなものが立ちはだかっているような気がする。僕に残ったものは、僕だけの経験しかない。もう少し皆に具体的な形を残したかったが、これといったものがない。 ならば、もう少しだけ何か残してから人生が終われるようにしようと思った。

そんな時に「THIS IS IT」「THIS IS IT」「THIS IS IT」マイケル・ジャクソンのドキュメント映画を3回見に行った。最初のダンサーのインタビューシーンでいきなり泣いた。オーディションを通ったダンサーたちの、このステージに対する思いの大きさ。まだ、マイケルが他界するなんて考えもしないで、インタビューに応えているシーンが、人生の不思議を見ているようで心が震えた。この映画を1月以内に続けて3回見た。いままでの人生で、続けて3回映画館に観に行った事は無い。「THIS IS IT」※これを観て、何かの為に、生きている理由が欲しくなって来た。MJとは年齢も同じぐらいだけど、いったい僕は何をしてきたのだろうか?そう思い、そして、僕の半生を描きだした。

1ケ月後【11月26日】

友人Sちゃん他界


インターネットの創世記(1995年)から一緒に、一から始めた友人Sちゃんだった。僕より年下でも、唯一僕を「愛を持って」イジル友人だった。僕が彼より勝っていたのは、サッカーゲームぐらい。あとは彼にはかなわなかった。友人の中では一番長生きしそうないつも明るく元気で健康な彼だったが。急性心不全だった。 前日迄元気だったのに突然の事だった。みんなショックを受けていた。当日の朝まで何かわりなく過ごしていたが、夕刻帰宅後、突然の他界。知らせを聞いてど号泣した。

いつしか現世を終える時が来る。突然くるかもしれない。たぶん突然そうなのだろう。生まれるときは僕で準備した記憶がないから、終わる時ぐらい奇麗に終われるようにしておこう。出来る事をしてみようと思い、まず、身辺を整理し始めた。以外に難しい。物だけでなく人が関係している事が多いからそう簡単にはいかない。新たに生まれてくる関係性もある。ともかく、あとあと不便の無い様にしておかなければ。 どこまで準備出来るか。そう決めたら、多少は気持ちが楽になった。ようするに何か目標が必要なのだ。今は、それがわからなっていたのだ。 いろいろな喪失感から、年内は事ある事に泣いて泣いて過ごしていた。 以後六本木は1年間以上寄り付かなかった。

六本木ありがとう。

僕は母親より長く生きている。知らないうちに母親の年齢を、10年以上も超えてしまった。もし今、超次元的などこかで、母と逢う事が有るとすれば、僕の方が、現世では多く生きたのだけど、話せるとすればどんな感じなのだろう。僕より若い顔の母が現れるのだろうか。母が亡くなってからの方が、既に長い月日を過ごしている事を、母は、どのように見ているのだろう。母より老いた僕をどのように思うのだろう。などなど、いろんな事を聞きたい。そして、甘えてもみたい。そしてこれからの道を聞きたいと願う。


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13日 訃報 友人E氏他界

★2010年(53歳)

【11月13日】

またしても、訃報が飛び込んできた。 またしても 【13】。号泣。
これ、サインだよね。偶然じゃないよね。

広尾のジムの仲良しさん。E姐。こんないい人いなかった。純粋で親しみやすくおおらかで。葬儀の日は故人の人柄が解るような人たちが集まっていた。入院中に友人Cさんがお見舞い時に、もう一度僕も誘って飲みにいきたいととおっしゃってたのに、実現できなくてごめんなさい。お花を添えて棺を運んで「ご冥福に」と、お別れとなった。健康面でいえば僕自身の方が心臓も慢性的に悪く生活も不規則なのに。僕まだ生きてます。

「ご冥福に」というのは、「冥界」では「福」である。ということらしく、不幸ではないらしい。解るんだけどね。。でも、もう人を送るの嫌だなぁ。。近親者、仲の良い友人知人より先に「ご冥福」の方がよいなぁ。。Cさんありがとう。E姐ありがとう。

ココ最近多くの友人知人の訃報が相次ぎ、僕は残された気分。 一番不健康で不摂生な自分は生かされている。。。それは何故?事有るたびにそう思う。 夏頃、「来年何かが起きる」と思っていた。翌年何かが起きる。。。 僕と会社のT君と、常にスピリチュアルなこと、大昔の文明や、宇宙のこと、(ギザのピラミッドが20年で建設なんて、過去の装備と人間だけではは創れないだろう。あれほどのモノを創れるのは、宇宙人が関わってないと。。などなど。)マヤ暦や2012年のことなど、数年前から気になっていろんな事を話していた。あとわずかで直面する問題でもあるので、年内に何か違った事をしようと思った。

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2011年何かが起こる

そうだフィジーへ行こう

【12月22日〜1月1日】長期休暇

長らく別居生活をしていた、田村家全員で最初で最後の海外旅行。「神の宿る島」フィジーへいこうと提案した。皆は、僕の2012年問題の真剣な気持ちとはおかまいなく?、喜んで集まった。(まぁ。しょうがないわね。。)長い間、お盆であっても、大晦日であっても正月であっても仕事ばかりしていたが、30数年ぶりの10日間の長期冬休み。

クリスマスから、元旦にかけて、神の宿る島フィジーへ出かけた。 パプアニューギニア経由は魅力だった。通称PNG!知っている人はPNGへ行くというと笑うらしい。約20年前に海外青年協力隊の説明会を聞いて行きたかったところ。当時はいろいろあり断念したけれど、JAICAの知り合いから現地の壮絶な体験談も聞いていたので、トランジットとはいえども、たちよりたかった。ようやく叶う。もちろんニューギニアエアライン!CAも現地の系の人たち!飛行機、今迄の経験上一番のおんばろだった。

 

パプアニューギニアのフライト表示
中段フィジービーチコマー島
マナアイランド


2011年何かが起こる

そうだフィジーへ行こう

【12月22日〜1月1日】長期休暇

成田を発って、パプアニューギニアへ直行。アドレナリン満載で、パプアニューギニア、ポートモレスビー・ジャクソン国際空港へ到着。乗り換えで待ち時間8時間、何もする事がナク、お店も二軒だけ。小さなおみやげ屋さん(made in chinaばかり)とインスタント粉コーヒーのショップ。これ、国際空港です。。他に行くところもナク、男子トイレも壊れて詰まっているし、ただただ8時間だら〜としているだけ。空港の待ち合い室だけでその片鱗を感じた。パプアニューギニア。アナドレン!。これで満足するのだからね。家族は不満そうだったけど。ごめんなさい。

8時間待って、飛行機に乗って、ソロモン諸島で給油で着陸。ここも何も無しい。また1時間ほどぼや〜とする。

やっと、フィジーナンディ本島に到着。もう夜だったので寝るだけ。ヤモリがいっぱいいた記憶。朝起きて、船で1時間半、離島のマナアイランドへ向かう。成田からパプアニューギニア経由、ソロモン諸島経由、フィジー島経由、マナアイランド。36時間かけてようやく着いた目的地。



BULA FIJI

ここでのルールは2つ。 1)朝食夕食は一緒に食べる。 2)喧嘩をしない。笑ってフィジーを楽しむ。 こんな簡単なことなのに、そんな簡単ではなかった。喜怒哀楽いろいろあってそれぞれのフィジーを過ごした。部屋は京都にいる息子と数年ぶりに同じ部屋で過ごすことになったので、嫁とのなれそめなどを聞かれ始めて話すことになった。

家族4人、右往左往ぎくしゃくした10日間のフィジーを終えた時、自分の楽しみよりも、皆に対して喜んでもらう事がテーマでもあった。少しは、ほんの少しは届いたのかしら?(自己満足的には)少々救われた気分になった。まだまだ足りん!と皆に叱られるかもね。。。「フィジーでの気づいた事:こんな家庭に誰がした?はい僕です」これで2012年まで、何かが起きても受け止められる。何か覚悟がひとつ。そう思いながら、日本に向かった。

フィジーのみなさんありがとう。家族のみんな、ありがとう。家族にも僕の生き方(考え方)に影響を与えている事は間違いない。

マナアイランドビーチ
中段珊瑚の化石
下段はサンドバンク「一周300歩程度砂だけの砂州」


来た。。。。311

★2011年(54歳)

【3月11日】

東日本大震災。やっぱり来た。そう思った。昨年から思っていた「何かが来た」と。

いわき市〈写真:武耕平氏〉

震災当日から、ずっと泣きつづけていた。被災していく状況を見ながら自分が何も出来ないジレンマと原発問題では批判ばかりの人たちをみていると悲しくてやりきれなかった。 僕の友人は東電関連の社員でもあり、当日から現地で泊まり込み、こもって対応されていた。時折メールでもやりとりした。すごく心配だった。。それなのに批判ばかりでいらついている人。東京から逃げる人。そんな中でも仕事の話をしてくる人。もううんざりだった。。自分たちの出来るコトをして、皆で少しでもできることをしてほしかった。

震災後すぐに、NGO担当者から緊急連絡があり、緊急で震災募金サイトをその日に機能するように応えた。僕はサイトの管理者だから、募金状況の進捗も見れた。当日からすごい勢いで募金が集まっていく。 今迄に見た事の無い勢いだった。テレビのニュース、映像を見ながら、募金サイトの状況を見ながら、自分が出来るコトを可能な限りやる。それが使命だし、世界中が見守って応援メッセージが来る状況を聞きながら 人生で初めて、この国、日本が好きだ!と強く感じた。 僕は、義援金と支援金の違いを含めて、必要なところに効果的に取り組める方法はないかと方々に声をかけつづけた。 そのNGOの募金サイトと活動は、その日に立ち上げた募金サイトからや、企業や、政府や、あらゆる機関から支援金が集まり、結果2年で75億円以上集まった。すこしは貢献できたのかな。。みなさんありがとう。きっと役に立つ活動がはじまるから。。。。

1ヶ月後、師匠、友人T氏、知人たちと自主避難地区南相馬やいわき市に自力で物資を運んだり、現地の方の生の声を伝えるべく動いた。 単に寄付するだけでなく、寄付の仕組みと復活の為の継続可能な事業案も創ってみた。甘い部分もたくさんあったのは確かだけど、このタイミングだからなのか「あざとい」とも言われた。近い関係からの意見だったのでこれも悲しかった。 長年売上げの1%以上を毎年寄付してきた。小さな売上げかもしれないが、赤字になっても続けてきたが、そんな経験や志は、この震災では何もかもが混乱し、無力で、自分の志まで、あざとく思われるとは思いもしなかった。 もちろん立派に活動されている方もたくさんおられ、僕自身は、黒子として、その方々を手伝う事にしようと思った。

救いは、南相馬やいわき市で会った人が、僕たちが出向いたきっかけもあり、廃業寸前だった状態からその気を出して復活された事。後押しができたことだった。 僕は、寄付の考え方を改め直した。大手のNGOやNPOにはその役目が有る。彼らには彼らの役割で。僕は、僕自身で手の届く人たちに、ちいさな事でも直接応援しよう。顔の見える人を応援する。そう強く思い、実行することにした。
この311を境に、自分の立場ばかり考える輩にはうんざりした。

もっと人の為に生きろよ!愛だろ!愛!

南相馬海岸沿い


親父の番号から携帯に電話があった

【2011年9月】

ある日、登録してある親父の番号から携帯に電話があった。その声は親父の声ではなかった。 一瞬で何が起こったのかわかった。 電話主「タムラトシヤさんの携帯でしょうか?」 僕自身「はい、そうですが。。。」 電話主「親父がなくなりました。。。親父の息子のタカシともうします。親父の携帯に番号が登録されていたので、お電話さしあげました。」 僕自身「。。そうですか。。。」 親父が再婚した異母兄弟の弟からの電話だった。 会った事も無いし、名前も知らなかった。その弟と初めて話したのが、20年以上前に2度ほどしか会話した事が無い、親父の他界の知らせだった。 電話主「いろいろお聞きしたい事もありますので、一度お会いして、お話をしたいのですが。。。」と言われた。週末に会う約束となった。 50数年間という月日が巻き戻される感じがした。

父の再婚による状況などをこの目で見る。 親父の腹違いの弟と初めて会う。 弟たちは、僕の事をお兄さんと呼ぶ。田村家の親族と初めて接点を持つ。 54年間という月日が巻き戻される感じがした。こうして再び、僕自身の家系が少しずつ解き明かされていった。そして、あらたに、カタチ上というか、会う機会は少ないにせよ、3人からお兄さんと呼ばれる弟たちも増えた。年老いてから知った、おとうとたち、ありがとう。

僕自身の家系を解き明かす事が、僕の「人生の意味、役割、学び」なのかなぁ。

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ステーブジョブス氏他界

2011年10月5日

同日、携帯を紛失。

その後、いろんな友人からジョブス死去に伴い、「大丈夫か?」という安否確認を頂く。MACがあって、自分の立ち位置を作ったから、もちろん号泣はし、ショックだった。けど、こういうときに昔の友人が連絡をくれるのは、本当にありがたい。


ジョブス他界の知らせを聞いて、1985年はじめてAPPLEを知り、感動とショックを受け、その後、はじめてアメリカから持ち帰ったMachintoh Plus、まだモノクロ9インチにも関わらず、当時の会社に苦労して承諾をえて、導入こと、APPLE JAPANに突然押し掛けた事、ジョブスがAPPLEを解雇され悲しみ、復帰し大喜びした事。APPLEで大きく仕事がかわって行った事、ついにマイクロソフトの時価総額を抜き世界を驚かした事。ジョブスがいなければ僕の仕事がどうなっていたのかと。ジョブスの世に出した贈り物なくして僕の仕事はなかった。そんないろんな考え事していたのか、ぼ〜としていたのか。。携帯電話紛失。ジョブスさんありがとう。本当にありがとう。

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役目が変わる

★2012年(55歳)

自社の力不足と震災がもたらした影響も有り、長年サポートしてきた大手企業との取引が白紙になった。 長年サポートしてきたNGOは大きくなった事も有り、体制も新しくなり、長年一緒に作り上げてきた職員の方々も退職されて、今迄のような関係ではなくなりつつあった。概ねこのような時は、決まって違う変化を求められ概ね古い関係性が見直される。過去の経緯や経験など関係ない。「登山家トッドスキナー」の教訓から言えば、「山はあなたの経験等知ったこっちゃない」こちらから潔くその関係から身を引いた。縁とはそういうものだと思う。

僕の役目は終わった気がした。 この大手企業とNGOとの関係が無くなったときは会社の潮時ではないか、と以前から考えていた。また311以降、僕なりの役割で人に尽くそう。そう考えていた。

約10年ぶりに、タバコ喫煙を復活。 一服すると、ぶっ倒れそうになった!そんな時、昔の知人が突然連絡してきた。 近くに会社を構えていた、昔の友人が、東京支店事業撤退の状況で、全身から溢れる「困った感満載」で、やってきた。 場所と法人格が必要なら、僕の会社を使えばよいよ。と「軽く」3人迎え入れた。 同時期、グループ会社からも、大きな仕事の協力を申し出られた。

こうして、新たなスタッフと事業が再起動したのもつかの間、夏。再び事業が暗礁に乗り上げていく。

六本木ファンキーな友人K姐が他界。号泣。

 

春先の勢いは減速し、秋から冬、そして2013年の方向性が定まらないままスタッフが入れ替わっていく。激しい顧客とスタッフの入れ替わりの中で僕自身の役割が終わったのか変わったのか、その両方で「新しいチャレンジを見つけなさい」と言われているのか。マヤ暦騒動の終焉とともに2012年は終わる。

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あれ?生きてる。

まだチャレンジするの?

★2013年(56歳)

息子も結婚し、娘も日本最大級のクラブ/アゲハで働き始め、新しいスタートを重要なポジションでスタートする。皆新しいスタートが始まる。行きつけの恵比寿にあるBARの店長さんが独立するという事を聞きつけ、若い頃に借金取りから苦心して持ち出し、買いたしたLPレコード約200枚を、僕が持っていても「宝の持ち腐れと」と思い、独立記念としてすべて差し上げた。物品、金銭など、貸しはあっても借りは作らないように心がけてきた。多少なりお貸ししているものもあるけれど「後はあなたの思うようにすれば良い、次へ廻してあげれば良い」と。全て思考や心の執着するコト、モノ、カネを解放するようにした。

 

決算期。会社の売上の1%。緊急支援NPO、難民支援NGO、東北アートNPO、東北復興支援関連6団体などへ支援。7年間売り上げの1%以上を寄付し続け、そして自身の賞与は無しとして、その分をスタッフに分配した。何か、肩の荷が少し楽になったような気がした。あとは成るようにしかならん。

 

 

そして社名を変更した。社名と体制を変え今一度進み始める。はじめて税務署調査を受けたが、特に問題は無かったが、書類上の不備だけは注意された。社名こそ変わったりしたけれど、もうかれこれ18年。もともと社長業や役員なんて向いてない性格にしてはよくやってると自分をほめているんだけどね。

長年それなりの重要なポジションや小さな会社ではあるけれど役員や代表を務め、ずっと前線で仕事をしてきた。人より倍働いて、お人好しのように気前よく分配して、寄付して。「愛のひとつだ!」と唱ってきたけれど、何が残ったのだろう。たいした事はできなかったし、かたよった経験と記憶しか残っていない。資産や資本やお金や実績はカタチや単位に表せるけれど、僕にはなにかあるのだろうか。自分のもっている数字(単位)に表せるわせるものは結果プラスマイナスゼロじゃん!あぁ〜〜〜かなり働いたんだけどなぁ。。。。今でも全力で働いているし。。

 

カタチある計れるものは何も無い。先日、とあるBARで役者をやっている30代の人に出会った。話しているうちに人間や生き方の話になって、かいつまんで僕の思考や経験談などを話していると、相手が自分の思考や人生も語りながら泣き出した。最後は僕に対し「幸せになってください!きっと幸せになって!」と、強くお願いされた。笑。僕自身いまや、そんなに不幸だとも思ってないけど。。おひとよしなオバカと言われら、確かにそうかも。と思う節はあるけどね。ずいぶん仕事の内容も求められる事も変わってきたから、またチャレンジの時期の合図かしら。精神的にも体力的にも結構厳しくなってきたんだけどね。進むところは、カタチにならないかもしれないけれど、不器用な表現しかできないけど、やっぱり愛だよなぁ。。。で、こんな iamtam を描きだした。

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愛というあやふやなものを朽ちさせない為に

「別れは人をクリエイティブにする」

北山修氏が、再結成時のフォーククルセダース解散時に残した辞世の句「別れは人をクリエイティブにする」をしみじみ感じるこのごろ。経験というもの、愛っていうもの やっぱりあやふやなものなんだなぁ。 好きな事、価値観が一緒な人とでは良い時は最高に楽しいけれど、ちょっとした行き違いでもろく崩れる時もある。嫌いな事の思考が共通する仲間と一緒に歩みたい。そう願ったり、想像したりする。

 

むかしむかし、結婚まもないころ。お互いよく知らないままに結婚生活が始まって、ちょっとギクシャクしていた頃。誕生日に嫁からもらった手紙が残してある。 その中身の一部。。。

「私のために夢ががどっかへいかないように、ぜったい夢が実現できるように。 今まで通りがんばって!わたしを選んでくれてありがとう‥‥」

 

夢、まだ実現できてないなぁ。。。。

というか、夢ってなんだっけ?

 

おおいなる存在、神よ、友人知人よ。もう少しだけ僕を生かしてくださいな。せめて孫の顔見る迄はね。来年こそは、覚醒するかもしれないけれどね。

あとどれくらいか解らないけれど、今の人生を歩んでいく。僕の「観念」を元に残りの人生のをね。

いろいろあったけれど、まぁまぁ面白き「嗚呼、愛しき」人生だったと言えるようにね。

愛というあやふやなものを朽ちさせない為に。


難が有るから 有難う。って言うらしい。

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〈いったんあとがき〉

偶然という言う考え方ですましたくない、全ての事は必然に起こっていると考えている。日常っていうものは、なかなか思うようにはならない。思考/希望とは別の事がたくさん起こる。決して望んでいない、「なぜ?」って言うような事が起こってしまう。「それが人生って言うものだよ」と言うのは簡単だけど、日々、思考した通り、計画した通り、思った事全てが、すぐに実現するとしたら。。。。よくよく考えるとこれは怖い事だと思う。よけいな事、善くない事が頭によぎるだけで実現してしまうと、それはそれで恐ろしいことになる。

だって、僕は、時々、一日の中で、ろくでもない事や、オバカな事が頭によぎる事がある。妄想癖もある。そんなことを、考えたり、脳裏によぎったりした事が、直ぐに、次々と、本当に起こったとしたら、それはもう大変だ。何百回、何千回と生まれ変わらなければいけないぐらい大変だ。

強く思っている事に向けて進んでいるのだけれど、時間差をもって計画以外の事が起こり、それに対処する事に意識を向けるようにして、乗り越えている。これでバランスをとられているのだろうね。また、その望んでいない事がおきるのは、何かの別の意味があるのだろう。不都合な事が起きて、これはきっと何か別の意味が何かあるのだ、今後、なにかに役に立つのだ、等と、なんとか僕なりに言い聞かせるけようにしている。

しかし、すぐに迷路に入り込む。結局考えがめぐりめぐって、解らなくなって気持ちが浮いたり沈んだりする。考えた事、思った事が、少々時間差があって起きるから、間違いに気がついたり、もう一度考え方を変えたり、工夫しながら、善く生きようとするんだよね。悪い状況から良い状況に成る迄の愛と希望をもち続けられるか、この時間差に絶えられるかどうかだよね。こうして、ついつい考えてしまう事が「生きる理由」探し。



「生きる理由」〜「そんなものない」

理由が欲しいから自分を見つめ直し、深みにはまって行く。などなど。。自分と社会の事を深く考えると、ほとほと疲れるんだわ。 自分の人生に対して、覚悟や本気度がたりないのかね。 この深い迷いから抜け出すには、人によってはいろんな方法があるのだろうね。僕は常に、自力で抜け出す方法を持っているわけではなく、ついつい外的な影響を望み、他人まかせになり、 そんな時にすがってしまうことがいくつかある。


・ご先祖さまに手を合わす。 (なかなか応えてくれないし、言われても納得するのだろうか。) ・既成の宗教宗派ではなく、宇宙の始まり、霊のような大きな存在からのサイン、悟りを望む。 (望んでも望んでも感じる事ができない。引き寄せる事も出来てない。) ・今の仕事がむちゃくちゃ忙しくなる事を望む。 (そんな事考えている暇がなくなるぐらいになって忘れる。これは根本的に解決しないし、長続きしない。) ・やたら、本を読んだり、映画を観たり、音楽を聞いたり、気骨な生き方や、心を動かすものを望む。 (それなりに心動くのだけれど、僕流にアレンジできないでいるので長続きしない。) 出来ない理由ばかり書いているみたいだ。。。 結局、自分の心持ちようしだい。自分の愛の持ちようしだいだ。と ぼや〜とは解っている。



「思考が人生を創る」自己啓発によくある思考

この言葉はいろんな書物や思想で紹介されているけれど、振り返ると僕が望んだものはどれくらいのものがあったのか。はたしてそれでよかったのか?また、突然に襲いかかる理不尽な事。それは前世からの繰り越されたもの、試練なのか?来世への修行の事か?ならば、それを前提として、今回の現世で、全て消化してしまいたい。来世には持ち越さず、悔いのない人生で終わりたい。今までの過去を思い出して、良かった事、良くなかった事。日常におこった事、僕の50数年記憶を綴るとどうなるのか。印象深いものを書き残していくにつれて、気づく事があるのだろうか?すっきりするのだろうか?本当にやり残した事はどれくらいあるのかを考えるまえに、過去の記憶と当時の心境を洗い出して、いつもより真剣に僕を見つめ直そうと思った。


親族、友人、知人僕の人生に関わった方々には、僕なりの「愛」で、「僕自身の思考が創りだした必然的な事」も含めて、僕の半生を残せば、ほんの少し、何かの参考になるのかもしれないと思い記録とした。


僕の出来る事で、僕の好きな事で、人に役に立つ事。いつ人生が終わるかもしれないから少しでも何か記憶に残っていく事をしたく思う。思い込みかもしれないけれどだけどちょっとは「愛というあやふやなものを朽ちさせない為に」経験はそれなりにあったのではないか。友人知人、及び関係者の皆様へ向けて。 独断ではあるけれど可能な限り、友人知人に迷惑だけはかけない様に、注意を払って描き出した。

(著名な方、著作物に記載されている方、WEBで検索されるような方々)は実名で、それ以外はイニシャルで明記した。登場人物の方々、またその知人の方々、それでも不愉快な部分があれば決して悪意は無く、僕なりの「愛」というあやふやな事で、ご了承頂きたく思います。これを読めば「ああ、こういう背景だったから、あの時はこうだったんだね。」とまた別の気づきが生まれるかもしれないし、僕に対する想いや読まれた自身の想いも変わるかもしれない。また、同様の機会があればあたらしい気づきのヒントになるかもしれないし、何かの酒の摘み程度にでもなればよいかと思います。



リビング・ウイル

終末治療の中止をもとめる意思表明書

私はこの終末治療の中止をもとめる私の意思表明書を、意識も清明で書いている内容を十分理解している状態で書いています。
私はこれまでの人生を、私なりに一生懸命生きてきました。 よって、私の肉体の機能が終わるとしても、決して悔いはありません。
私が終末期となり、意識を失うような状態におちいったり、 あるいは、たとえ呼びかけには応じても意識は朦朧としている状態になったときには、以下のようにしてください。
・家族に迷惑や手間をかけるような事は一切希望しない。本人の意思>家族の意思>友人の意志
・胃瘻や鼻から管を入れるような医療設置は希望しない。
・自力呼吸が不可能となった場合でも、人工呼吸器の装着をしないで、最期まで自発呼吸を望む。
Paliative Care
・緩和ケア=痛みを伴わない処置による安らかなプロセスでの満足死を望む。
・自分が呼びかけに応じない場合、延命治療という選択肢は行わない。
・家族の意思による延命処置は、面会程度の2〜3日以内とする。
・または継続中の延命治療そのものを中断していただきたい。
・人工透析は必要としない。
・家族・友人葬を希望する。葬儀・告別式などの一切の儀式は不要。
・戒名は必要なし、お骨は共同霊園で問題なし。
以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従ってくださった行為一切の責任は私自身にあることを付記いたします。

2013.11.13 田村敏也

最後に僕の背景を付け足します

山羊座 B型 動物占い:ペガサス 六☆☆術:火星人− 五体満足
経験した職業:八百屋、ちり紙交換、ライブハウス店員、コック見習い、牧師見習いハウスキーパー、整備士、製版技師、POPライター、デザイナー、マーケティングリサーチ室長、社長室室長、会社代表他。
影響を受けたひと:坂本龍馬、和田誠、中村天風、安岡正篤、加藤和彦、PINK FLOYD、ボブ・フォッシー、アントニオガウディ、カフカ、永嶋慎二、北山修、西郷隆盛、BONO、吉田松陰、トッドスキナー、スティーブジョブス、宮川一郎師匠、あんちゃん、多くの友人知人、家族に敬意をもって。
踏みしめた地:パリ、ミラノ、ミュンヘン、デュッセルドルフ、ケルン、上海、香港、台湾、深川、ロシア、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、ミネアポリス、ニューヨーク、メーン州、アトランタ、ボストン、ワシントン、ワイオミング、アリゾナ、ユタ、コロラド、ニューメキシコ、シリコンバレー、バークレイ、バルセロナ、マドリード、パプアニューギニア、ソロモン諸島、フィジーマナアイランド、ボルネオ島コタキナバル、バンコク、サムイ島、北海道、青森、岩手、新潟、長野、石川、富山、東京、神奈川、群馬、埼玉、千葉、山梨(瑞牆山)、滋賀、三重、名古屋、岐阜、和歌山、奈良、京都、大阪、兵庫、島根、鳥取、岡山、広島、山口、高知、福岡、長崎、沖縄。
お会いした海の向こうの人:フランス、オーストラリア、イスラエル、イタリア、ノルウェー、スゥェーデン、カナダ、エチオピア、イングランド、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、ポーランド、ベルギー、ブラジル、ギリシァ、スペイン、コロンビア、ブルガリア、ニュージーランド、タイ、アメリカ、ドイツ、ナイジェリア、スーダン、韓国、台湾、中国、パキスタン、ペルー他。

参考資料

※:1963年8月11日に公開。日本の特撮ホラー映画。英題は、MATANGO の他、The Fungus of Terror、Curse of the Mushroom People など複数あり。製作、配給は東宝。イーストマンカラー、東宝スコープ。 本多猪四郎(本編) 円谷英二(特撮) ※:「無法松の一生」 大映・1965年版 主演:勝新太郎※1965年、当時大学生の加藤和彦の雑誌「MEN'S CLUB」での呼びかけに応じ、北山修が妹の自転車で加藤を訪ねる。その後、平沼義男、浪人生の井村幹生、芦田雅喜が加わって5人で結成され、「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトから「ザ・フォーク・クルセイダーズ」と名乗る。1967年、アルバム『ハレンチ』を音源として、フォークルの歌がラジオでさかんに取り上げられるようになった。『イムジン河』『帰って来たヨッパライ』などをプロとして発表。※:2002年、加藤和彦は北山修と再会し、その結果として生まれたのが『戦争と平和』であった。ちなみに、この時のフォークル新結成にはザ・フォーク・クルセダーズの大ファンであったTHE ALFEEの坂崎幸之助が、はしだのりひこに代わるメンバーとして参加。※宮川 一夫(みやがわ かずお、1908年2月25日 - 1999年8月7日)は日本映画界を代表する映画カメラマンである。主に京都太秦、大映映画の時代劇における陰影ある斬新な撮影で稲垣浩、溝口健二や黒澤明らが監督する作品のカメラマンとして世界に知られる。本名は、宮川一雄。(http://ja.wikipedia.orgから引用)永島 慎二(ながしま しんじ、1937年7月8日 - 2005年6月10日)日本の漫画家。フーテン(1972年、青林堂)